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連載・特集

『生きて』 日本被団協代表委員 坪井直さん <3> 広島工専

下宿して機械工学学ぶ

 1943年、広島市千田町(現中区)にあった広島工業専門学校(現広島大工学部)の機械科に入学した。古里の音戸(現呉市)を離れ、昭和町(現中区)の下宿先から通った

 広島工業専門学校へ進んだのも、技術を習得して国に報いるためじゃった。ええ飛行機を造り、敵をやっつける。学校生活も、とにかく戦争に勝つことだけを考えとったんです。もちろん物理や工業数学も習いましたが、先生の指示で、軍用機のエンジンの設計や製図を手伝ったこともありました。

 スポーツをして体を鍛えるのも全ては戦争のためじゃった。部活動だったと思いますが、学校の近くでグライダーに乗って模擬飛行も体験しました。鋼を造る福山の工場や加計(現広島県安芸太田町)の水力発電所へも動員されました。

 44年11月、徴兵検査を受けた。痩せていたので、甲種合格の次の第1乙種合格だった

 検査官に「第1乙種合格」と復唱させられた私の声は、無念さで震えていました。戦況が悪化していたんで、甲種合格になるかもしれんという期待もあった。あの時は残念でならんかったです。

 ほかの学生が戦地へ行くたび、心は焦りました。今思えば、何をそんなに死に急ぐんかと思われるかもしれませんが、軍隊に入れば国に報いることができると信じとったんです。

 呉市の旧制呉一中(現三津田高)の同級生が戦地に赴くことになり、見送りに駆け付けた

 東京の大学に通っていた友人が、出陣するため、広島に戻ってきた。私は、広島駅まで見送りに行きました。旧制中学時代、あとに残った者が骨を拾おうと約束し合った仲じゃったから。

 友人は、多くの人に囲まれていました。私と目が合い、一瞬、沈黙が流れました。そして、寄せ書きがしてある日の丸の旗を、友人から受け取りました。私は用意していたカミソリを取り出して、右手の小指を切った。にじみ出た鮮血で「武運長久」と書きました。友人は私をじっと見つめていました。私は「俺もすぐに征(い)く」と伝えました。じゃが、私はとうとう戦場へは行かないまま、8月6日を迎えたのです。

(2013年1月18日朝刊掲載)

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