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連載・特集

『ピカの村』 川内に生きて 第1部 「あの日」から <3> 葛藤

苦しみ 調査票に切々と

子のため 生き抜く決意

 「杖(つえ)とも柱ともたよる主人を無くし生活困難」―。終戦から7年後の1952年。原爆に夫を奪われた枌岡(そぎおか)アヤメさんは、広島県川内村(現広島市安佐南区)の役場から送られてきた調査票につづった。

 調査票は、爆心地近くの中島新町(現中区中島町)で建物疎開中に全滅した川内村国民義勇隊を含む原爆死没者230人の遺族が対象。亡くなった状況や残された家族の人数、生活状況などを答え、冊子「原爆関係戦没者調査綴(つづり)」にまとめられた。その写しが広島大原爆放射線医科学研究所(南区)に保管されている。

 枌岡さんは98年に86歳で亡くなった。「調査票の存在は母から聞かされていなかった」と次女坂井郁子さん(75)=安佐北区。今夏、初めて目にした。「子どもに言えない苦しみを抱えていたのでしょう。原爆がなければ母はもっと楽に生きられたのに」。郁子さんは母を思う。

 「思ひ出せば身の毛もよだつ思ひが致します」。母は「あの日」のことを、そう振り返る。

 当時33歳。13歳から生後8日目の乳飲み子まで、2男3女に恵まれた。1945年8月6日、国民義勇隊の建物疎開に参加した夫繁夫さん=当時(37)=を失った。八丁堀(現中区)に学徒動員されていた長男隆邦さん=同(13)=も帰ってこなかった。

 自由記述の「資料の補備」の欄。悲しみが綿々とつづってある。隆邦さんを思い返し「死ぬる時は何度も何度もお母さんお母さんと呼んだでせう」。

 母はあの朝、腹痛を訴えた隆邦さんを「お国のため」と送り出した。それを後々まで悔いた。亡き夫に向け「一生懸命に働いて四人の子供を一人前にしなくては」と誓っている。

 親族から「子どものため」と説得され、間もなく7歳下の夫の弟年明さん(故人)と再婚した。村には同じように夫を原爆で亡くした後も、再婚しなかった人は少なくない。「それがまた、母の心に葛藤を生んでいたのではないか」と、郁子さんは推察する。

 再婚すると、原爆で夫を失った妻を対象にした国の弔慰金が入らない。一家は代々、農家。収入は不安定だった。調査票では「其(そ)の日其の日がようやくです」と苦境も訴えている。

 ひたすら土を耕した母。体調を崩し、病院通いも続けた。同じ思いをさせまいと、郁子さんたちに「手に職を付けなさい」と言い続けた。3人の娘は和裁や洋裁の学校、次男は工業高校に進ませた。

 郁子さんは、2人の息子と3人の孫に母の書いた調査票の写しを読ませようと決めた。「彼らにどれだけ伝わるか分からない。でも原爆が川内にどんな苦しみを強いたのか、母がどんな道を歩んだのか知ってほしい」と思う。社会福祉協議会のメンバーとして平和学習を手伝う近所の保育園でも、川内の話をしてみるつもりだ。(田中美千子)

(2013年7月9日朝刊掲載)

『ピカの村』 川内に生きて 第1部 「あの日」から <4> 親を亡くして

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