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連載・特集

『ピカの村』 川内に生きて 第2部 支え合って <1> 広島菜

生計を立てた 戦後の糧

少年の苦労は紙芝居に

 68年前の「あの日」、国民義勇隊の約200人が爆心地近くで全滅した広島県川内村(現広島市安佐南区)。突然、原爆で大黒柱の夫を失った女性や子どもたちは、支え合い、励まし合い、戦後を生き抜いた。その歩みを地域でどう伝え継いでゆくのか、農村から住宅地へと姿を変えた川内を歩き、考える。

 夏休みを控えた7月中旬。広島市安佐南区の川内小の4年2組では、児童30人が紙芝居に真剣なまなざしを注いでいた。「英(ひで)君と広島菜」。13歳で両親を原爆に奪われ、広島菜の栽培で生計を立てた少年の物語だ。


 夫は重い口を開き、ぽつりぽつり語った。結婚して約半世紀。知っていたはずの過去なのに胸が詰まった。「何と苦労した人か、と。原爆がなければ違う人生があったのに」

 1945年8月6日、陸軍衛生兵だった板尾さんの父一男さん=当時(37)=は観音町(現西区)で、母ミチさん=同(34)=は川内村国民義勇隊として爆心に近い中島新町(現中区)で建物疎開中、ともに被爆死した。

 4男1女が祖父母の元に残された。末の弟は2歳。紙芝居は長男の板尾さんの苦労を描く。夜明け前から馬を引き、野菜を積んで市場に通う。集めた下肥を担ぐてんびん棒が肩に食い込む。「『ぼくがやらないと』。英君は気力をふりしぼって体を動かします」

 麦、キビ、芋、トマト…。近所にならい種をまいた。秋からは広島菜。ミユキさんは「嫁いだ頃から川内には農閑期がなかった。みな、生きるのに必死でした」と振り返る。

 明治期に川内地区で品種改良が進んだ広島菜。太田川と古川にはさまれ、水はけの良い土は菜に適した。終戦から3年後、川内農協が漬物の加工場を造ると栽培農家はさらに増えた。女性や子どもたちは、収穫を増やす方法を学び合った。冬場の漬け込み作業も臨時収入となった。あかぎれの手を冷たい水にさらして菜を洗った。

 農業に自信がついた板尾さんは広島菜に軸足を置く。59年、仲間と加工場を造り、販売まで手掛けて弟と妹の学費を稼いだ。「夫は菜に情熱を注いだ。大事な収入源だった」とミユキさん。

 爆心地から北に10キロ離れた川内地区の戦後を、生きる糧として支え、冬の味覚の代表格となった広島菜。一方で高度経済成長を弾みに宅地化が進んだ。畑を分断するように山陽自動車道が走り、広島菜の里は姿を変えた。

 広島菜の作付面積は80年の57ヘクタールから22ヘクタールに減った。約0・2ヘクタールになった板尾家の畑と加工場は会社員の長男弘幸さん(51)、朋子さん(48)夫婦が守る。「昔は畑を継ぐなんて思いもしなかった。でも父が精魂込めて作ってきた畑は手放せない」。弘幸さんは早期退職し、農業に専念することも考え始めた。

 紙芝居はこう結ぶ。「広島菜は全国で有名になりました。それは戦後の英君たちの努力や苦労があったからこそであることを、私たちは忘れてはなりません」(田中美千子)

(2013年7月25日朝刊掲載)

『ピカの村』 川内に生きて 第2部 支え合って <2> 白梅会

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