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連載・特集

『ピカの村』 川内に生きて 第2部 支え合って <3> 浄行寺

女性たちの心休まる場

生活救った無償託児所

 広島市安佐南区の川内地区では、浄行寺の鐘が朝の訪れを告げる。毎日欠かさず午前6時に決まって6回。「平和への思いを込めて、打っています」。撞木(しゅもく)を振るう住職の坂山厚さん(64)は言う。

 戦国時代の1570年に創建された浄土真宗本願寺派の寺。戦時中の金属不足に伴い、釣り鐘が供出された。今の鐘は川内村(現安佐南区)の門徒たちが金を出し合い1952年4月、新たに造った。

 この時から、坂山さんの祖父で先々代の住職、輝秀(きしゅう)さん(72年に79歳で死去)が、朝の鐘突きを始めた。

 時刻も回数も「6」。8月6日と、6字の「南無阿弥陀仏(あみだぶつ)」の意を込める。米国が広島市に原爆を投下した1945年8月6日、川内村国民義勇隊は爆心地近くで建物疎開作業に従事し、約200人が全滅した。

 学校や勤務先で被爆し逃れてきた人も相次ぎ息を引き取った。輝秀さんは火葬に立ち会い、古川の岸から連日、野辺の煙が上った。

 原爆に夫を奪われた妻たちは家族を養うため早朝から働いた。鐘の音が響くと農作業を止め、手を合わせた。

 浄行寺には無償の託児所ができた。川内地区出身の竹内益枝さん(70)=西区南観音5丁目=は、小学校に上がるまで通った。「よその子と長机の前に座り、姉が持たせてくれた弁当を食べた。みんなで歌も歌った」

 父の下中京市さん=当時(46)=は義勇隊で被爆死した。母チエさん(2002年、90歳で死去)は当時33歳。11日前に生まれたばかりの末っ子を含め、3男2女を抱えていた。

 竹内さんは姉たちから聞いた。ある日、チエさんは5人を連れ、自宅近くの太田川の岸に立った。「死にとうない」。子どもたちの言葉に、チエさんは身投げを思いとどまった、と。

 その後、チエさんは寺に5人を預け、懸命に働いた。「お寺のおかげで母が農業に専念でき、一家が何とか生活できた」と竹内さん。寺の託児は53年、村立の川内幼稚園ができるまで続いた。

 原爆投下から1カ月後の9月6日、浄行寺は犠牲者の追悼法要を営んだ。遺体が見つからず、葬式を出せない家も多かった。境内には親族、友人たち約600人が詰めかけた。

 月命日の法要はその後も続いた。この日ばかりは女性たちが農作業の手を休め、集った。坂山さんが幼いころ、本堂はいつも人であふれた。「皆さん、なかなか席を立たれなかった。互いに励まし合い、心休まる場でもあったのでは」

 住職を継ぎ25年、坂山さんは歳月の重みを感じる。女性たちは次々に亡くなり、月命日の法要に参列するのは野村マサ子さん(92)=安佐南区川内6丁目=ただ一人になった。「家族を奪われ、苦しい暮らしを強いられた人たちがいる。原爆が川内に何をもたらしたか、記憶をつなぎたい」。その思いを重ね、鐘を突く。(田中美千子、石井雄一)

(2013年7月27日朝刊掲載)

『ピカの村』 川内に生きて 第2部 支え合って <4> 二つの祖国

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