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連載・特集

2001被爆者の伝言 米田美津子さん (上) 嫌いな言葉は「青春って何?」

米田美津子さん(72) 広島市中区榎町

今も消えぬ心の傷

 私、青春って分からないの。取材で一番嫌な言葉は「米田さんの青春は?」と聞かれることなんです。「あんた、なんてむごいことを言うの。そんな言葉を使わないで」と言うんです。私が聞きたいですよ。「青春って何?」って。

 被爆したことで差別もされた。あの苦しいのが青春、と言われれば、それまでなんですけど…。外出する時は、頭にふろしきをかぶり、首のケロイドは右手で隠しました。それでも、子どもは残酷なことを言うんです。「お化け」「ハゲ」とか。病院へも、裏道を通ったんですよ。

  祇園高等女学校に通っていて、学徒動員先の広島駅前郵便局で被爆。左半身に頭から足の指先までやけどを負う。両親を失い、庄原市の祖父母に引き取られた。十六歳だった
 (やけどの跡が盛り上がり)首には大きなケロイドができて、左右に回らないんです。唇もゆがみ、食べ物がこぼれる。髪の毛も抜けている。被爆から四年後に広島市の義兄に引き取られた後も、銭湯に行くと、子どもが近くに来れば、母親が「近くに行ったらいけん。うつる」と言うんです。容姿が気になる年ごろですよ。つらかった。

  翌年、通院していた広島赤十字病院の医師の厚意で、無料で手術を受けた。ケロイドは以前より目立たなくなった
 私の友人にも同じような苦しみを持っている女性がいました。原爆で顔に無数のガラス片を受け、傷跡が入れ墨のようだったんです。その人が結婚したので、ある日、家に行くと、だんなだけが一人で食事をしていた。「いつもこうじゃけえ」と言うんです。夫は日ごろから「お前の顔を見よると、まずうなる」と言っているらしかった。自分が言われたように、つらくてねえ。

 あまり他人に言ってないけど、四十歳で結婚し、十三年ほど広島を離れたんです。引っ越した先で、私の傷を見た人が「あんた、どしたん?」と聞く。私が「原爆でなった」と言うと、「ようもろうてくれる人がおったねえ」と言われたこともある。

  六年前に腎臓(じんぞう)を悪くして週三回、人工透析に通う
 修学旅行生に被爆体験を話すのもやめました。今、体験をきちんと語れるギリギリの年代でしょうけど…。

 原爆被害のうち、見える傷と見えない傷、どっちがつらいと言ったら、見えない傷の方なんです。被爆から何十年たっても、喫茶店に行けば、原爆で焼かれた左半身が人目にさらされない位置に座ってしまう。電車でもそう。瞬間的にそんな場所を選んでしまう。つらい時があまりにも長かったでしょう。心の後遺症なんです。

(2001年7月16日朝刊掲載)

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