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連載・特集

2001被爆者の伝言 米田美津子さん (下) 「戦争はいけない」思い継承して

米田美津子さん(72) 広島市中区榎町

 (腕のケロイドを見せながら)こんなになっても、生きていくのはつらいことです。生命力があって生かされ、けがをして、病気もしてきたが、まだ生きているんです。よく生きてきたなあと思うんですが、生かされているとも思うんですよ。

 生かされているんだから、被爆体験の証言活動に打ち込もうと思った。

 ▽生かされた者の義務

 最初、病院のケースワーカーに頼まれた時は「話したくないから」と断わったんです。平和運動から遠ざかっていたし、思い出したくなかったし。でもね、私はこうして「つらかった」とか言えるけど、何にも言えずに死んだ友もいる。私には話す義務があると思ったんです。

 平和運動から遠ざかっていた米田さんは一九八三年、「原爆被害者証言のつどい」に参加。修学旅行生らに体験を語り続けてきた
 暑い時も、寒い時も平和記念公園に立ち、被爆アオギリの前で証言してきた。私と同じように、左半身を焼かれた木があるでしょ。被爆のときは、私が収容された広島逓信局(現中国郵政局)にあった。くすぶっていたのを覚えていますよ。

 ▽アオギリに励まされ

 その木が次の年に芽を出したときはうれしかった。ああ、あの木も生きていたんだって。毎年、芽を出すのを見ては、自分も頑張って生きようと思ってきた。だから、あのアオギリにはこだわりがあるんです。

 被爆アオギリは七三年、平和記念公園に移植された
 でもね、悲しいかな、もう体が動かないんですよ。もう六年前から平和公園には立てなくなってしまった。だからね、これだけは言いたいの。

 戦争があるから、原爆が使われたわけでしょう。広島逓信病院の野っぱらで終戦を知ったとき、「どうして、もっと早く戦争を終結してくれんかったんか」って思ったんですよ。そうすれば、私だって死ぬるか生きるかの状態にならずにすんだわけでしょ。だからね、絶対に戦争はいけないの。

 それとね、原爆で死んだ人たちも大変だった。だけどね、生き残った人も大変だったんよ。一人一人がどういう思いで生き抜いてきたのか。それぞれに歴史があるんですよ。

 それを一人でも多くの被爆者に語っておいてほしい。そして、一人でも多くの人に聞いてほしい。私たちが亡くなった後に、被爆者の思いを継承して、言い続けてくれる人が育ってほしい。

 現在はおいの家族と暮らす。週三回、人工透析で通院するほかは、ほとんど外出せず、移動には車いすが欠かせない
 いつの時代も男が戦争を起こしている。私らの時代も、女性たちは出征する兵隊さんを日の丸の旗を振って送った。これも戦争に参加したということですよ。

 だから、今度は女性に頑張ってほしい。「自分たちの手で戦争を拒否してください」。声を大にして言いたいんです。

(2001年7月18日朝刊掲載)

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