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連載・特集

2001被爆者の伝言 中谷玉江さん (中) 教え子に勇気もらい語り始めた

中谷玉江さん(69) 広島市中区江波東

 ▽ケロイド隠す長そで
 子ども相手なら、被爆者への大人の冷たい視線を受けずにすむ。教師になった本心にはそんな動機もありました。ケロイドを隠すのに、夏はどんなに暑くても長そで、ソックス姿で通した。就職後もしばらくは、八月六日前後は広島を離れて旅行に行き、被爆のことは黙っていた。

 でも子どもは正直よ。夏も長そで、水泳指導もせん先生は不思議でしょう。休憩時間に「どうしたん」って聞いてくる。「これじゃいけん。自分の人生を狭くしとる」と思いながら、半そでを着ることができたのは、被爆から十年余りたってからでした。

 広島市立千田小で教えていた一九六八年六月末、ケロイドが残る左足かかと、右ひじが皮膚がんの前がん状態と診断された。三十六歳だった
 夏休みを待って入院しました。休みの前日、がんで手術し、夏休み後もしばらく休まねばならないことを、どう驚かさんよう子どもに伝えようか悩んでました。五年生のクラスでしたけど、わたしが被爆者だと知らない子もいましたから。

 子どもらは暑中見舞いを出すから、住所を教えてほしいと言う。返事を書けないと分かっていたから「先生よりお世話になった人や親せきに出すのよ」と、かわしても納得してくれん。

 子どもに勝てんと思った。もしかしたら、もう学校に来れなくなるかもしれん。何で被爆して二十三年後に、がんにならんといけんのか。怒りもふわーとわいてきて…。すべてかなぐり捨て、胸の中にしまいこんでたものをありのまま話そうって決意した。私が子どもに被爆体験を語る出発点でした。

 被爆者医療に尽くした故原田東岷医師の病院で三度の手術を受け、六八年九月に退院する

 ▽同じ思いはさせない

 教師をやめようと思ってましたね。体力がいる仕事ですから。でも、入院中に子どもたちが手紙をくれて。つらい入院、手術も、あの子たちがいたから乗りきれた。

 原爆で結婚をあきらめたから、わが子はおりませんけど、教え子は本当にいとおしい。人間不信だったのにね。教師を続ける自信もないくせに、一刻も早く退院し、この子らの五年生をこの手で終わらせてやりたかった。矛盾してますよね。

 七〇年に江波小に転勤し、本格的に被爆体験を語り始めた
 話すとマスコミも書き立てるし、いやなことも多かった。ずかずか人の心に入ってきて、必要な所だけつまんであとはポイ。理由は分かるけど、ひどい取材もあった。

 教師じゃなかったらずっと黙っていたと思う。わたしは子どもに支えられ、勇気をもらって脱皮できた。正直に話した方が、子どもにも私にもプラスになるという思いに変わった。教え子に私と同じ思いをさせてはいけん。そういう責任感、義務感にかられたんです。

(2001年7月27日朝刊掲載)

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