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連載・特集

2001被爆者の伝言 中谷玉江さん (下) 若い人、少しでも原爆と向かい合って

中谷玉江さん(69) 広島市中区江波東

 むなしいんですよ、今。平和教育に情熱を傾け、子どもに幸せとは何か語り続け、たどり着いた現状に希望が持てない。核廃絶なんて訴えても世界は変わらんし、社会は寒々しい。このままじゃいけんと分かっていても、こんな体じゃ…。被爆証言をするのも奈良の小学校に年一回だけ。被爆教職員の会の会合にも行ってません。

  広島県原爆被爆教職員の会には、一九六九年三月の発足当初から参加した。県教委の調べで当時、約九百五十人の被爆教職員がいたが、被爆者健康手帳を取得してない人も多かったという

  ▽学校に配慮足りず

 被爆者への配慮が、学校現場になくてね。原因不明の熱が年に何度か出るし、人が全力投球できても、私は60%しか力が出せん。皮膚がんの手術(六八年夏)前後、足の血うみが止まらなくても休めんかった。退院後に無理を重ね、学校で倒れたし。

 体育の授業ができないので低学年の担任は難しいと訴えても、二年生を受け持ったこともある。校長は「中学校へ行ったらいい」とか、学校にスロープも無いのに「車いすを買ってやる」とか言う。辞めろと言わんばかりでした。

 会に誘われた時は嫌だったけど、互いに理解できるから本音を語れた。何より原爆の生き証人として、平和教育を進めようという使命感を持った人たちがいた。頑張ろうと思ったもん。会が私を変えたんです。

  七二年六月には、大学教授や教職員らでつくる「広島平和教育研究所」が開設、研究員として参加した
  ▽手探りで教材作り

 平和教育っていうと、当時は「偏った授業」「アカの先生」って言われてた。研究所では大学の先生らと勉強会を開いたり、自分たちで教材作りもした。何にもないから手探りでした。

 江波小(広島市中区)に行ってから、それまでと百八十度変わって平和教育に取り組んだけど、同僚は関心無くて。仕事が増えるのが嫌なんですね。原爆瓦を使って何かしようと呼び掛けても、案も出なかった時は残念でした。学校ぐるみで平和教育に取り組むには十年以上かかった。

  広島の川から発掘された原爆瓦を使った「平和の碑」が八三年八月、江波小に完成した
 子どもが一円募金をして、原爆ドーム型のデザインも決めた。当時の児童が大人になって、「原爆の日に碑の前でお祈りしたよ」と言ってくれた時はうれしかったですね。

 でも残念ながら、被爆体験に根差した平和教育の火は消えるでしょう。でも、原爆を中心にした平和教育は続けてほしい。

 今は頑張ろうというより、無力感に陥ることが多い。だから、若い人にエールを送りたい。自分たちの力で、部分的でいい、正面から原爆と向かい合って。私らはいずれ消え去るんですから。

(2001年7月28日朝刊掲載)

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