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連載・特集

2001被爆者の伝言 金枰立さん 手帳もらい、日本で生き残った

金枰立さん(キン・ヘイリツ、83) 東京都青梅市

 いい思い出なんて何もない。広島にいい思い出なんてあるわけない。あんなとこ、夢に見るのも嫌なんだよ。だから(被爆後に)広島を離れてから、一度も行こうと思わなかった。

 韓国から大阪市に来たのは一九三三年。広島市には四三年、疎開のため一家で移り住んだ。爆心地から約一・五キロの中区千田町で被爆。二十七歳だった
 家主さんの家の建物疎開を手伝っている最中だった。取り壊して出る木材をどこに置くか相談していたら、体の左側が熱くなって。その時、上半身はランニングシャツ一枚。ほら、首にシャツの襟に沿ってやけどの跡が残ってるだろう。

 ▽家族と離ればなれ

 母親は、大野町の疎開先からおれを捜しに来て(入市)被爆した。両親と嫁さんらは十月に韓国に帰ったけど、おれは大野町の病院に一年あまり通った。やけどはなかなか治らなくて、発熱やだるさが一年以上続いた。

 韓国に帰りたかった。体が治ったらと思ってたけど、ある程度治ったら、今度は帰る気は無くなった。だって、韓国じゃ(被爆者健康)手帳がもらえんでしょうが。日本じゃすぐ病院に行けるし。

 韓国に帰った嫁は籍を抜いた。母親が亡くなった(七四年)のを知ったのは、死んでから九年後だったよ。

 四七年に疎開前にいた大阪市に戻り、燃料店に勤める。その後は仕事を求め、東京都、千葉県など関東地方を転々とする暮らしが続いた

 ▽入退院を繰り返す

 病気で一日働いて、一日休む生活よ。そんなんじゃすぐクビになっちゃうもん。立川市(東京都)でグラウンドやテニスコートを造ったり、いろんな所で日雇いの土木の仕事をやった。

 昭和三十年ごろ、仕事を辞めて生活保護を受けた。いろんな病院を転々として入退院を繰り返した。六年前には肝臓がんの手術を受けた。今は腰が痛くて歩くのが大変だから、一日中どこにも行かないで万年床よ。

 今夏、五十四年ぶりに広島を訪れる予定だった。六日の広島市の平和記念式典に、東京都の遺族代表として参列するためだ。だが、体調の悪化と広島への嫌悪感から、その決心は直前まで揺れ、三日になって市に欠席を通知した
 東友会(東京都原爆被害者団体協議会)から三月、「広島に行かないか」と誘われた。当時、親切にしてくれた近所の人は、みんな原爆で死んだ。広島に行ったらそんなこと思い出すからね。迷ったけど、もう最後だからと思って…。

 でも、春先から体の調子がおかしい。今年は暑いし、式典に並ぶのも不安だ。やっぱり広島に行くのはやめたよ。いまさら原爆のこと考えたくないし、五十六年たって何になる? どんなに訴えても、体は元通りにならないんだから。

 おれは日本にいたから、手帳をもらって生き残った。しょうがない。

(2001年8月5日朝刊掲載)

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