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連載・特集

韓国のヒロシマ70年 陜川の今 <中> 記憶の継承 苦難の半生越え証言

 韓国慶尚南道陜川(ハプチョン)郡にある国内唯一の被爆者養護施設「陜川原爆被害者福祉会館」。柔らかな日が差し込む相部屋で李水龍(イ・スンヨン)さん(87)は目頭を拭いながら、きれいな日本語で語った。「日本で被爆し、韓国の暮らしにもなかなか溶け込めなかったので、子どもに苦労をかけた。だから、つらくて体験を話せない」

 1935年に陜川郡近郊から家族で広島市に移り住み、爆心地から約1・6キロの広島貯金支局(千田町、現中区)に勤めた。「朝鮮人は雇ってくれんという人もいましたが、勇気を出して試験を受けたら合格してねえ」。あの日も、誇りだった職場にいた。同僚を助けられないまま、血だらけで火炎の中を逃げた。

 45年11月に帰郷したが、言葉の分からない母国で苦難が続いた。朝鮮戦争の戦地となり、親族は北朝鮮側の協力者に疑われて殺された。孤立や体調不良で同世代より遅く結婚した相手は「生活力がなかった」。果物店を切り盛りして3男1女を育て上げた。「80歳を超えてここに入り、やっと静かに過ごせています」

ビデオ撮影に協力

 「子や孫には話さんです」。同じく広島で被爆した尹寿基(ユン・スギ)さん(85)も被爆者への偏見に触れ、こぼした。2003年に日本政府が国外で暮らす被爆者への健康管理手当の支給を始めた際に被爆者健康手帳を取ろうとすると、次男の妻に「手当と同額のお小遣いをあげるからやめて」と止められた。孫への差別を懸念したようだという。

 ただ、この秋、李さんと尹さんは、会館が始めた入所者の証言ビデオの撮影に協力し、体験を基に「核兵器と戦争はあってはならない」と語った。発案した、金光恵(キム・カンへ)福祉療養課長(58)は入所者の複雑な胸のうちをこう推し量る。「被爆後の差別や窮状は自分から家族に話しにくいけど、日本と韓国での壮絶な体験を、戦争の怖さを知らない若者に語り残したい気持ちもある」

 ビデオは会館の隣接地に郡が建てる原爆被害資料館で上映する予定だ。建設を要望してきた韓国原爆被害者協会陜川支部も「被爆体験にとどまらず、日本に移住を余儀なくされた貧困や、帰国後も差別や戦禍を経験した苦しみを被爆者一人一人の半生を通じて伝えたい」と、証言映像を展示の核に期待している。

資料の寄贈を希望

 金日祚(キム・イルチョ)さん(87)は、海を越えて携えてきた被爆前の写真を今も、会館内の自室で大切に保管する。江波尋常高等小学校(現江波小、中区)の卒業写真、高等科への進学がかなわず、妹の子守をした姿…。複製を資料館に寄贈したいという。「日本で差別され、韓国に戻っても言葉や風習が分からんで大変でしたが、生きてきた証し。子どもにしゃべるんは、つろうてできませんが、私の代わりに『戦争はいけません』と伝えてほしい」

 会館で暮らす被爆者は102人。平均年齢は81歳を超えている。(水川恭輔)

陜川原爆被害者福祉会館
 日本政府が1990年代に在韓被爆者の「人道的支援」として拠出した総額40億円の基金のうち、約3億円と韓国政府の助成で建てられ、96年に開館した。大韓赤十字社が運営。地上3階地下1階建てで居室、診療室などがある。2009年に増築し、定員110人。

(2015年12月17日朝刊掲載)

韓国のヒロシマ70年 陜川の今 <下> 被爆地の役割 核廃絶 連携芽吹くか

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