×

連載・特集

グレーゾーン 低線量被曝の影響 第4部核大国の足元で <下> 調査の限界

原発周辺 健康リスクは

 大量の放射線が瞬間的に襲ってくる原爆被爆に比べ、長期間にわたり少しずつ被曝(ひばく)する場合、どんな健康影響があり得るかを探るのは簡単でない。核実験や核兵器開発の関連ならまだしも、規制を順守し稼働する原子力発電所の周辺となれば、さらにハードルは高くなる。核大国の米国では昨年夏、原発の周辺住民を対象にした研究計画が中止になった。当事者の間で、冷めた声と「科学的に探求すべきだ」との思いが交錯する。(金崎由美)

紙面イメージはこちら

「実態隠すためでは」 がん・流産の不安くすぶる

住民対象の研究打ち切り

 水辺に豊かな緑と美しい家並みが広がる。米ニュージャージー州ブリックは、摩天楼が林立するニューヨークから車で南へ1時間余り。いかにも住環境に恵まれた地区である。「退職後に都会から引っ越してくる人もいるの」とジャネット・タウロさん(56)は笑顔を見せた。「でも、私自身は不安を抱えている。フクシマと同じ型の原発が近くにあるから」

 自宅からさらに南へ30キロの川沿いに立つオイスタークリーク原発のことだ。1969年に稼働。現役の原発では全米最古である。

 「放射性物質のトリチウムが漏れ出して地下水脈に達するなど、住民生活に影響を及ぼしてきた」と、地元の環境団体で活動するタウロさんは廃炉を求めてきた。2012年10月には米東部が大型ハリケーンに襲われ、原発が浸水する恐れから非常事態宣言が出された。その前年、東京電力福島第1原発が地震、津波と冠水を経て電源喪失したため大惨事に至ったことを思い出した。

 同原発を運営する企業は、操業許可の期限よりも10年早い19年までに稼働を止める方針を出している。温排水の放出が環境に影響するとして、州当局から冷却塔を設置するよう求められたことがきっかけ。電力価格の低迷も相まって、老朽化した原発へのさらなる投資を断念したという。

 だが、「原発自体がなくなるわけではない。廃炉作業で新たなリスクも生じる。油断はない」。タウロさんは言い切る。

 その点からも、気になることがあった。安全規制を担う米原子力規制委員会(NRC)が、原発周辺の住民を対象に実施を検討していたがんのリスク研究を打ち切ると、昨年夏発表したのだ。

 NRCから事前調査を委託された米科学アカデミー(NAS)は、実行可能性や採用すべき研究手法、対象範囲を探り、「第1段階」の研究報告書を12年に提出。稼働年数、周辺住民の規模、環境中に放出されるさまざまな種類の放射性物質のデータなどを比較した上で、オイスタークリーク原発を含む7カ所を選定することや、半径50キロ以内を対象にした疫学調査などの選択肢を予備研究として示していた。14年には、予備研究の前半部分に関する報告書を出していた。

 NRCは、NASの勧告の通りに行えば「予備研究だけで800万ドル(約8億3200万円)必要。本格研究に入れば15年かかる」と説明。「他の研究機関などで行われている調査研究を注視していく」という方針に転じた。

 地域の活動仲間が4月下旬、タウロさん宅に集まり、この問題に議論が及んだ。「原発の近くでは小児がんや流産が多いと住民は話している。住民の健康問題を解明できるかもしれないのに、800万ドルはそんなに高いのか」とタウロさんは憤る。一方、ポーラ・ゴッシュさん(80)は「当初から『大丈夫』という結果しか出さないつもりだったと思う。原子力業界から、研究継続に対する圧力があったとしても驚かない」と冷めた見方だ。

 貴重な機会になり得た。いや、実態を隠すためでは―。関心を寄せる市民の思いは複雑だ。中立的な立場から集められた、信頼できるデータがほしい、という願いは共通している。

研究者 揺れる心境

「結果を得た上で知識を深める方がいい」

「お金投じれば成果を得られるか、難しい」

 「大人の男性を基準にした研究では分からないことがある。胎児にとっての健康影響はどうなのか。小児白血病の発症と関係しているのか。研究すべきだ」

 5月上旬、首都ワシントンで反核団体「ビヨンド・ニュークリア」が福島第1原発事故から5年の節目に開いたシンポジウムで、メンバーのシンディー・フォーカーさん(47)が強調した。米原子力規制委員会(NRC)が、予算と時間の浪費を理由に原発周辺でのがんリスク研究を中止したことを受けた発言だ。

 シンポに招かれていたサウスカロライナ大のティモシー・ムソー教授は、NRCから委託された米科学アカデミー(NAS)の専門委員として、2012年の報告書の作成に携わった。後日の取材に「打ち切る理由が本当は別にあるのかは分からない」と話した。同時に、「お金を投じれば一定の成果を得ることができるか、となれば難しいのも確か。仮に健康影響がわずかに存在しても、見つけ出せない可能性すらある」と述べた。

 ハードルの一つは、データの「質」だという。「放射性物質の放出量は、平均値だけではなく上下動も把握できないと。一瞬跳ね上がった時の影響も観察すべきだ。だが現状では簡単でない」

 人間のデータも同様だ。「国民皆保険制度で受診データが整っており、がんの発症歴も正確に確認できる日本とは大きく違う。死因の記録だけでは、がんでも違う病名で記録されている場合が少なくない」と指摘する。

 それでも、ムソーさんは「続けるべきだと自分は考えている。非常に残念だ」と言う。健康影響を恐れている住民に、できる限りの研究成果を提供するだけでも意義はある。そのための予算ならば法外ではないと思うからだ。「『影響はある』との情報を住民に一切出したくない、という原子力業界の意向は感じる。だが、結果を得た上でお互いが知識を深める方がいい」

 12年7月から14年末までNRCの委員長を務めたアリソン・マクファーレンさんは任期中、「計画を進める方針への異議は聞かれなかった」と断言する。「ただ、連邦議会からNRCに対する予算削減のプレッシャーは常にある」

 政策の優先順位、費用、議会や業界の意向、そして住民感情―。それらが科学的な追究と複雑に絡み合う。

スリーマイル事故疫学調査

同じデータで異なる結論

 原発から環境中に放出される放射性物質について懸念する声が上がる背景には、福島第1原発事故だけではなく、1979年3月に発生したスリーマイルアイランド原発事故の記憶も関係しているようだ。

 米北東部ペンシルベニア州のハリスバーグ郊外で、営業運転を始めたばかりだった2号機。誤操作と不具合が重なって原子炉の冷却ができなくなり、炉心溶融に至った。世界的にも旧ソ連のチェルノブイリ原発事故、福島第1原発事故に次ぐ過酷事故である。

 ただ、核燃料は格納容器にとどまったため放射性物質の放出はそう多くなく、「住民が避難したことが幸いし、被曝線量も最大で1ミリシーベルト以下」とされた。州当局が81年に発表した住民調査の結果でも、原発から半径10マイル(18キロ)以内での子どもの死亡率は上がっていないと確認した。

 しかし、専門家による疫学調査が相次いで行われた結果、相反する結論が出された。

 病院に残る事故前後計10年間の住民カルテなどを分析したコロンビア大のチームは、がんの症例数が事故後に増えてはいるものの、「放射能漏れとがんリスクの間に関連はない」とし、「ストレスが原因か、検診率が上がったからかもしれない」と推測した。

 この結果に反発した住民は、同じデータを使った調査をノースカロライナ大のチームに依頼。すると「事故後に放射性プルーム(雲)が通ったと思われるエリアで白血病や肺がんの発症率が高い」と結論付けた。事故直後の状況についての住民証言からも、被曝線量の数値自体が電力会社や行政の発表よりもはるかに高かったと指摘した。

 疫学調査は、研究者がデータのどの部分に着目し、どんな計算モデルを採用するかによって結果が違ってくるという。調査対象者が少なかったり、見つけ出そうとする違いが微妙だったりすると、なおさらだ。

 広島と長崎の被爆者調査でも、全員亡くなるまで続けてやっと分かることがあるといわれる。被曝線量がさらに低いスリーマイルアイランド原発の周辺住民となれば、健康影響調査の難しさは、被爆者の場合よりも一層増しそうだ。

(2016年6月21日朝刊掲載)

年別アーカイブ