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[グレーゾーン 低線量被曝の影響] がんリスクとの関わりは

 どんなに少ない被曝(ひばく)でも、線量に応じた健康への影響があると仮定し、これ以下なら安全という数値(しきい値)は存在しない―。放射線から身を守る放射線防護の考え方は、この仮定に従って「しきい値なし直線(LNT)モデル」が国際的に採用されている。ただ、実際の影響を巡っては、研究者の間でLNTを科学的な仮説としても支持する意見と、疑問視する意見の双方が根強くある。放射線に、危険と安全の「境界」は存在するのか。議論と研究が続いている。(藤村潤平、金崎由美)

LNTモデル 直線的な比例の関係

異論 好・悪影響両方がある

 放射線防護の研究者でつくる保健物理学会が、6月末に青森県弘前市で開いた研究発表会のパネル討論。低線量被曝の健康影響に関して、研究者同士がいかに認識を共有するかが議論になった。

■防護目的では支持

 東京工業大の松本義久准教授(放射線科学)は、LNTを踏まえて「がんにしきい値が存在するかどうかはコンセンサス(合意形成)は得られていない」と強調。他のパネリストからは「防護目的のみに有効」との意見が出た。

 100ミリシーベルト以下の低線量被曝の影響は、放射線影響研究所(放影研、広島市南区)による被爆者ら約12万人の追跡調査でも、はっきり見えてきてはいない。影響が小さいため、喫煙などの生活習慣や食生活といった他のリスクに隠れてしまうからだといわれている。

 LNTは、はっきり分からない影響を「より安全側に立って身を守る」という防護モデルとしては、科学者から広く支持されている。しかし、低線量域で見られる特有の現象から、実際の影響が直線になる(比例関係にある)との仮説には、異論も目立つ。

 細胞の自己修復能力に着目したDNA損傷・修復の研究では、一定の線量以下では「健康に問題はない」と主張されている。かつては「少しの放射線なら体に良い」と考えるホルミシス説の研究が、盛んに行われた。放射線損傷を受けた細胞が、周辺の細胞にも同じような影響を及ぼすバイスタンダー(傍観者)効果から「低線量被曝の方が体に悪い」との見方もある。

■海外でも一致せず

 海外の権威ある研究機関がまとめた報告書でも、結論は一致していない。

 フランスの医学アカデミーと科学アカデミーが2005年に発表した報告書は、低線量ではがんや白血病などは実際には発症しないとし、100ミリシーベルト以下でのLNT適用には否定的だ。わずかな放射線を浴びると細胞が抵抗力を付ける「適応応答」などの発見を根拠に、「低線量での体への影響は高線量の場合とそもそも異なる」とした。

 逆に、06年に米科学アカデミーの委員会が低線量被曝に関してまとめた報告書は、疫学、動物実験などのデータを合わせて検討し、低線量でも「しきい値なし」モデルに沿って考えることが科学的に妥当だと結論づけている。

 そんな中、昨年、国際がん研究機関(フランス・リヨン)の研究チームが発表した疫学論文が注目された。フランスと英国、米国の原発や核燃料施設などで1年以上働いた約30万人の健康状態と被曝線量の関係を分析。100ミリシーベルト以下でも白血病やがんのリスクはなくならないとし、LNTを支持する結果を示した。

科学的にLNTが妥当

ロバート・ウーリック放影研副理事長

 米科学アカデミーの2006年報告書にコロラド州立大の研究者(放射線腫瘍学)として関わり、専門家委員を務めた。放射線防護の面から「真実ではないかもしれないが、念のため採用すべきだ」という意味ではなく、低線量被曝とがんリスクの関係を疫学や動物実験、がん発生のメカニズム研究などから「LNTは科学的に妥当だ」との結果を導いた。

 その際、最も信頼できる根拠としたのが、放影研の被爆者の「寿命調査」データだった。これに核兵器関連施設の労働者や医療被曝の疫学データ、さらに動物実験から得たデータなども合わせて検討した。

 とはいえ、ごく低線量でも健康影響が見られることを実際に測定できたわけではない。信頼性あるデータを根拠に、理論的に結果を得たものだ。

 生物学的に言うと、放射線が細胞を貫いただけでも修復不可能なDNAダメージは起き得る。そこから、がん発生までは複雑な経路をたどるが、問題が生じる可能性は排除できない。

 そうした観点から、被爆者データで明らかな「線量とがんリスクの間には直線的な関係がある」という知見を100ミリシーベルト以下でも適用できるとした。

 「しきい値」があると考える人たちからは反発された。報告書では100人の集団を仮定し、1人は放射線が原因、42人はたばこなど他の原因で、がんになると推定した。逆に「過小評価」という意見もあろう。放射線研究は科学だが、実際は政治も絡み、最初から結論ありきの議論も見られるところに難しさがある。

価値観絡む現状認識を

甲斐倫明・大分県立看護科学大教授

 LNTは、放射線のリスクを考える上で生まれたものだが特殊ではない。例えば、ガソリンに含まれる発がん性物質のベンゼン。環境省は、規制基準にLNTを採用している。放射線が他の物質より不安を増大させるのは、機器があれば誰でも比較的容易に微量まで測れることに一因がある。

 そもそもLNTを科学的に否定し、「ここからは安全」というしきい値モデルをつくることは難しい。その水準を正確に証明しなければならないからだ。それができない限り、規制などでLNTを前提に物事を考えざるを得ない。

 科学者の立場からすれば、LNT仮説を標的にした研究に走りすぎた反省がある。肯定派と否定派が批判し合い、しきい値の存否の議論に固執した。しきい値を具体的に示せないのに「LNTは間違っている」と指摘しても、社会はどうしていいか分からない。

 私はかつて、低線量の問題を取り上げたときに喫煙のリスクと比較し、バッシングされた経験がある。人間の健康という観点で考えれば、比べてもおかしくない。しかし、原発の是非や喫煙の嗜好(しこう)性など複雑な背景が存在し、単純な科学の議論はできないと実感した。

 放射線の影響研究が「原子力利用と一体となって進められた」という指摘は、否定はしない。使う以上、安全研究をするのは当然だ。低線量被曝の議論は、科学的な側面だけでは語れない。社会や価値観の問題も絡むことを認識しなければ、問題の本質は見えてこない。人々の不安を減らすこともできない。

(2016年7月26日朝刊掲載)

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