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連載・特集

被爆建物 今後も広島とともに アンデルセン・パン生活文化研究所 高木彬子相談役に聞く

新店舗で新たな出会いを

 本通り商店街(広島市中区)で建て替えが進む広島アンデルセンの新店舗に、被爆建物の旧店舗から切り出していた被爆外壁を取り付ける工事が今月完了した。これにより、引き続き被爆建物として広島市に登録される。アンデルセン・パン生活文化研究所の高木彬子相談役(94)に、旧店舗への思いなどを聞いた。(桑島美帆)

  ―被爆から3年後に、比治山本町(南区)で夫の俊介さん(2001年に82歳で死去)と開いた小さな店が始まりでしたね。
 あの頃は本当に食べ物がなく、皆がおなかをすかせていたものの、パンが売れるようになるとは誰も思っていなかった時代。しかし女子高生から「戦災を受けた街で生きてもしょうがないと思ったけれど、こんなにおいしい物に出会えるなら生きる元気が出る」と声を掛けられた。その言葉が忘れられず「もっと良いパンを焼かねば」と思うようになった。

  ―銀行だった建物を購入し、1967年10月にアンデルセン(現広島アンデルセン)を開店しました。なぜ被爆建物を活用したのですか。
 当初は、原爆を受けた建物という印象はなかった。高い天井を見上げ、一つ10円のパンを売るのにどうやって使おうかと思案した。幹部社員の間では「こんなに使い勝手の悪い建物は壊して建て替えよう」という意見が大半だった。

 だが視察先のイタリアとスイスで、外観は古くても一歩中に入ると斬新な売り方をする店をいくつも目の当たりにし「絶対に壊しちゃいけない」と決めた。吹き抜けがあるからこそ、買い物や食事をしながら豊かな気持ちになれる雰囲気を演出できた。確かに、太い柱に阻まれ、輸入した大型ショーケースが入らないなど苦労はあった。

  ―後に被爆建物として知られるようになったことは、どう受け止めますか。
 建物にいた大勢の行員が亡くなっている。私たちが広島のためになる商いをすることで、み霊に安らかに眠ってもらいたいと感じた。しかし決して原爆を「売り」にしたのではない。本通りを象徴する建物で、デンマークをお手本にしながら「すてきな出会いがある街」のような空間を目指した。

 広島を訪れる外国人の多くは、原爆被害への関心にとどまらず、そこから立ち上がったことに魅力を感じていると思う。原爆資料館であの惨禍を身をもって知り、街を歩いて広島アンデルセンに入れば、つらいことがあっても負けていられないと元気をもらったはずだ。

  ―親しまれてきた建物の外壁を残し、来年夏に新店舗がオープン予定ですね。
 私たちは広島の街の発展とともに成長し、地域と「共創(きょうそう)」してきた。旧建物を自分の店のように感じていた人も多い。これまで育ててくれた人たちに恩返しをするためにも、時流に流されず、新たな出会いや楽しみを提供していきたい。

たかき・あきこ
 旧京城第一高等女学校卒。1948年に夫の俊介氏と「タカキのパン」を創業し、51年以降、タカキベーカリーの広報や販売などを担当。2003年から現職。09~13年に広島商工会議所女性会会長も務めた。13年中国文化賞受賞。中国・大連生まれ。

広島アンデルセン旧店舗
 1925年に三井銀行広島支店として建てられた2階建てのルネサンス様式を基本とする建物。旧帝国銀行広島支店だった45年に被爆した。爆心地から360メートル。67年にアンデルセングループが購入し増改築を重ねて使用したが、耐震化の問題があり2016年に営業を休止。昨年7月に解体し、外壁の一部を切り取った。

(2019年10月14日朝刊掲載)

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