ヒロシマの空白 被爆75年 埋もれた名前 <1> 「一家全滅」
19年11月29日
70年余 公的記録なし
遺族申請で名簿登載
北陸を目指して広島を出発し、新幹線と特急を乗り継いだ。到着したJR富山駅(富山市)から、さらに車で約15分。夕暮れ時の閑静な住宅街を訪ねると、民家の敷地に慰霊碑が立っていた。「廣島原爆ニ妻男女二兒爆死」―。この地で育ち、32歳で被爆死した青木信芳さんと妻子の名前が彫られている。
本人以外「漏れ」
記者が富山を訪ねたのは、信芳さん家族5人が原爆により全滅し、しかも信芳さん以外の4人の名前が広島市の「原爆被爆者動態調査」からこの春まで漏れていたことが取材で分かったからだ。一家はどんな人たちだったのだろうか。
信芳さんのおいの青木久之さん(73)が出迎えてくれた。慰霊碑は約40年前、父の故勝治さんが弟一家を悼んで建てた。勝治さんの遺志を継いで慰霊碑を長年守ってきた久之さんは、戦後生まれ。悲痛な記憶を封じていた亡き父から、信芳さん家族について詳しく聞かされたことはない。
「叔父のことは『優秀で自慢の弟だった』ということ以外、ほとんど話しませんでした。この碑が父の思いそのものでしょう。せめて名前を残してやりたい、と」。慰霊碑をなでるように手を添えた。
信芳さんは富山市の農家で生まれ育ち、地元の旧制中学を経て軍人の道を進んだ。東京の陸軍大学校を1944年3月に卒業後、広島に配属され妻子と広島市大手町3丁目(現中区大手町2丁目)に移り住んだ。
自宅一帯は壊滅
45年8月6日は、妻の富美さん=当時(28)=の妹の枝本玉枝さん=同(26)=も訪ねてきていた。朝、信芳さんは広島城(現中区)内の中国軍管区司令部へ。枝本さんは自宅で洗濯をしていたという。
そこへ米軍は原爆をさく裂させた。爆心地から約300メートルの自宅一帯は壊滅し、長女芳美さん=同(4)=と長男信美さん=同9カ月=との計4人が亡くなった。
同じく中国軍管区司令部に配属され、被爆後を信芳さんと一時共にした故松村秀逸さんの手記などによると、信芳さんは自宅跡で妻と枝本さん、長女の遺骨を自ら拾ったが、乳飲み子だった長男の遺骨は見つからなかった。水が張られた洗濯用の「たらい」から愛児の着物を拾い上げて、形見にしたという。
久之さんは、信芳さんの遺品の黒い「昭和二十年手帳」を大事にしまっている。45年8月6日の欄に、鉛筆で薄く走り書きがある。「負傷ス 一家全滅」
その信芳さんも、けがは比較的軽かったものの被爆による急性症状に襲われた。「(信芳さんは)青い顔色をして歯茎から出た血が仲々とまらない」(松村さんの手記)。24日後の8月30日、市内で死去した。
それから70年余り後。信芳さんのめい金井町子さん(66)=富山市=は、平和記念公園の原爆慰霊碑に納められている原爆死没者名簿に一家の名前があるかどうか、「念のため」調べてみた。2016年に観光で初めて広島を訪れたのがきっかけだった。
遺族として広島市に確認を申請すると、信芳さんを除く4人の名前が入っていないことが分かった。命を一瞬で奪われた広島で、記録に残されることすらなかった死者の無念を思った。「同じように原爆で亡くなったのに…。供養したい」。市に登載を申請し、18年夏に書き加えられた。この春、動態調査の死亡者データにも情報が反映された。
市、県、国など、ほかのどの被害調査にも記されておらず、公的機関が名前をつかむことはできなかった4人。戦後の市の取り組みや国の調査は、十分だったのだろうか。(水川恭輔)
(2019年11月29日朝刊掲載)
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