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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <5> 戦勝国の兵士

遺品 焼け跡写す一枚

故人の手記添え寄贈

 原爆資料館(広島市中区)に2019年度入館した外国人は、約52万3千人。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて臨時休館するまでの11カ月間だけで、過去最多を更新した。

 比例して、海外からの資料の寄贈も増えている。15年度以降で20件以上。特に、占領軍兵士が個人的に撮影した被爆後の市街地の写真を、遺族が寄せるケースが目立つ。平和博物館として、それだけ世界の注目を集めているからだろう。

 どんな人が、どんな思いを込めて資料を寄贈しているのか―。インターネット上でやりとりを重ねた。

 カナダの太平洋岸、バンクーバー島に住む元看護師、ダナカ・アカーソンさんは昨年、写真8枚を同館に寄贈した。「核兵器禁止のために写真が役立てられる、と感激しました」。いずれも、米カリフォルニア州生まれの父ダニエルさん(12年に88歳で死去)が1945年11月ごろ撮影した。

「一生忘れない」

 米海軍の機雷掃海任務に就いていた。戦争中、米軍と日本軍の双方が日本沿岸にまいていたからだ。船から上陸すると、カメラを手に歩いた。一枚は、中国新聞社の当時の社屋から撮ったとみられる八丁堀(現中区)。「すべてがれきと化していた。本当なんだ。一生忘れないだろう。説明の言葉も見つからない」。ダニエルさんは家族に書き送っている。

 生前、戦争体験を語ることはなかった。「誰にも見つからないように撮影し、せっけんと鏡を使って現像したそうです」。晩年になり、わが子に写真を託した。

 ダナカさんが写真を提供したきっかけは、めいの広島旅行だった。写真の複写を原爆資料館に持ち込むと関心を示された、と聞いた。「今なお世界で多くの命が奪われ続けているからこそ、資料館のような場は大切」とダナカさん。訪れたことのない広島を思いながら、ダニエルさんが生前「戦争屋たちに、決して核兵器を使わないだけの分別があることを願う」と家族に宛てた手紙の言葉をかみしめている。

 米シアトルのポール・コーターさん(62)も、父ジョンさん(2015年に96歳で死去)撮影の写真8枚と本人の手記を17年に寄せた。ジョンさんは日本が無条件降伏した13日後から翌1946年まで、米駆逐艦で日本沿岸の監視業務に従事した。

 その間、広島に上陸して本通り(現中区)周辺の焼け跡などを撮った。「痛ましい光景。軍用トラックの荷台に乗っていた皆が無言だった」。手記は、市内を回った日をこうつづる。

父の複雑な心情

 ポールさんは、父が抱いていた複雑な心情を代弁する。「原爆投下によって日本本土の上陸作戦が避けられ、米兵の命が救われた、というこちらでは標準的な考えを持っていました。ただ、核兵器が二度と使われてはならない、との思いも強かった」。写真の寄贈は、「原爆の歴史が忘れ去られないように」という遺志をくんでのことだった。

 軍国主義の日本と戦った戦勝国。「原爆投下が戦争終結を早め、大勢が命を落とさずに済んだ」とする肯定論は、歴史研究の大勢とずれてはいるが、今も根強い。しかし、一人一人が被爆地を歩きながら受けた衝撃と、胸に刻まれた思いは決して一様でなかった。

 原爆資料館は、海外に職員を派遣し、米軍などが撮影した調査用の記録写真を収集している。遺族が寄せた個人撮影の写真を見れば、記録写真とそう変わらないカットも実際にはある。大きな違いは、往々にして故人の手記が添えられていることだ。モノクロの画像データに、焼け野原での体験から絞り出された肉声が焼き付けられている。(山下美波)

(2020年4月12日朝刊掲載)

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