×

連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <4> 米軍撮影写真

被害実態 鮮明に語る

7000点 海外で収集

 終戦後の1945年秋ごろに広島を訪れた米海兵隊の法務官が、焼け跡に残る石柱を撮った1枚の写真。原爆資料館(広島市中区)学芸員の小山亮さん(39)がパソコン画面で拡大すると、石柱に掛けられた木板の墨書が、1文字ずつ輪郭を表してきた。「大手町国民学校 仮事務所」

 「この正門の柱の奥にブランコも見えるんです」。小山さんたちが2017年、米バージニア州の米海兵隊歴史部で見つけた。大手町国民学校の焼け跡だと明確に分かる写真を同館が入手したのは、初めてだった。

 被爆により廃校を余儀なくされたこともあり、この学校に関する現存資料はわずか。「広島原爆戦災誌」によると、爆心地から1・1キロの木造校舎が全壊全焼。児童35人が被爆死し、181人が行方不明あるいは連絡不能になった。

 日本人写真家たちが被爆後の広島市街を撮影してはいるが、枚数は限られている。住居や家族を奪われた市民の多くは、写真どころでなく生きることに精いっぱいだった。一方で、米軍は終戦後に「日米合同調査団」や「戦略爆撃調査団」を相次いで広島入りさせ、原爆の軍事的効果を地上と上空から記録した。呉市などに駐留した英連邦軍も、広島市街を撮影していた。

場所や時期特定

 同館は13年度、新資料の発掘を目指して39年ぶりに職員の海外派遣を再開。昨年度までに米国、英国、ニュージーランドの軍関係の博物館などで写真資料を中心に7千点以上を集めた。

 国や県の補助はなく、市の単独事業だ。限られた日程と予算で、資料をひたすら接写、スキャンする。帰国後に一枚ずつ、撮影場所や時期を特定させる。収集だけで終わらない。被爆前の写真と比べながら、原爆被害の実態という「空白」に迫っていく。

 あの大手町国民学校の焼け跡の写真は、どうするのだろう。肝心の被爆前の写真は、原爆資料館に所蔵されていないという。

 そこで記者が思い当たったのが、同校卒業生の掛井千幸さん(90)=東広島市=だ。現在の原爆資料館東館(中区)付近にあった旧天神町の自宅と両親を原爆で失った。校庭で級友とジャングルジムを取り囲む記念写真や、ブランコで遊ぶカットを大切にしている。

 掛井さんが提供してくれた写真を示すと、小山さんは「学びやのたたずまいと、児童の笑顔が心に訴えかけてきます」と見入った。収集資料と市民の手元にある資料を結べば、「空白」は埋まっていく。

高精細の空撮も

 海外で収集された写真は、思わぬ「発見」に貢献している。

 浄土真宗の私塾「真宗学寮」(西区)。被爆後に臨時救護所となった木造の講堂と寮舎が現存する。被爆直後に学寮へ避難した村山季美枝さん(80)=東京都文京区=の体験証言をきっかけに、被爆建物らしい、との情報が市に寄せられた。

 登録の可否を判断するため市から調査依頼を受けた原爆資料館だが、学寮の被爆状況がはっきりと分かる写真はなかった。鑑定の糸口になったのは、16年に米海軍歴史遺産部で収集した航空写真だ。低空で角度があり、高精細。拡大すると、爆心地から約2・6キロの講堂と寮舎が倒壊せずに残っていることが確認できた。昨年10月、市の被爆建物台帳に加えられた。

 村山さんに、その航空写真を見てもらった。「無残の一言。学寮の校庭に敷き詰められたむしろの上で、けが人がもがき苦しむ姿は耐えがたい光景でした」

 もとは原爆の威力を誇る側が残した記録。米軍関係者の遺族から米海軍歴史遺産部へ寄贈された際、「引っ越し先に置き場所がない。関心がなければ捨てて結構」と手紙が添えられていたという。被爆地で、あの日の悲惨を伝える新資料になった。村山さんは、真宗学寮と航空写真が平和教育に生かされることを願う。(水川恭輔)

(2020年4月11日朝刊掲載)

関連記事はこちら

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <1> 米軍返還資料

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <2> 技術の進歩

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <3> 被爆者カルテ

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <5> 戦勝国の兵士

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <6> 被爆者手帳の申請書

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <7> 解散団体の記録

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <8> 「原本」の重み

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <9> 被服支廠

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <10> 被爆者の「終活」

年別アーカイブ