×

連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <7> 解散団体の記録

各地の歩み 無二の財産

散逸歯止め瀬戸際

 地域住民の活動拠点としてオープンした市民生活協同組合ならコープ(奈良市)の「コープふれあいセンター六条」。組合員や子どもが集う施設の1室に昨年秋、「ならコープ平和ライブラリー」が併設された。

 平和を伝える絵本類とともに、2006年に解散した奈良県原爆被害者の会(わかくさの会)が63人分の被爆体験を収録した3冊の手記や、活動当時の会報誌など計300点を置く。

 奈良市内に住む入谷方直(まさなお)さん(46)が、15年ごろから県内の被爆者や遺族を訪ねて集めた。「被爆者が心の傷を抱えながら苦しみ、生きたことが伝わってきます」。平和活動に熱心に取り組むならコープが、スペースを提供してくれた。

 入谷さんは、広島市で生まれて1歳で県外へ引っ越したが、毎夏市内の祖母宅に母と帰省していた。ヒロシマは身近だった。本職は、美術院国宝修理所(京都市)の主任技師。12年に始まった被爆建物の国宝・不動院金堂(広島市東区)の修理事業で、国重要文化財「木造薬師如来坐像(ざぞう)」を担当した。

 奈良で被爆地とつながることはできる―。まず地元の被爆者について調べた。「わかくさの会」の被爆者や遺族を訪ねると、多くが手元の書類を処分してしまっていた。「散逸」を肌で痛感した。

 入谷さんは広島市に3年間通い、市が養成する「被爆体験伝承者」の認定を受けた。「被爆者一人一人の人生を記し、残したい」。資料収集と被爆体験の聞き取りを続けている。広島女学院高女4年の時に被爆した井上ヨネさん(90)=奈良市=は「被爆者にとって、入谷さんやコープは大きな存在です」と話す。

高齢化で困難に

 全国各地の被爆者団体の資料は、広島と長崎から離れた地で支え合ってきた活動の記録であり、被爆者運動の戦後史をたどる歴史資料ともいえる。今、次世代に引き継がれるかどうかの瀬戸際にある。被爆者健康手帳を持つ被爆者の平均年齢は、昨年3月末現在、82・65歳。解散が相次ぐ。

 約15年前に解散した尾道市の「瀬戸田町原爆被害者の会」の梶川春登(はると)元会長(92)は、今年に入り慰霊碑建立の趣意書や設計図などの大半を焼却した。「犠牲者の無念をくんで慰霊碑を建てたことで、自分の役割は果たせたと」。高齢者にとって、山積みの資料を整理し、受け入れ先まで探す作業は並大抵でない。

 そんな状況を知る入谷さんが「困ったら相談を」と話すNPO法人がある。作家大江健三郎氏らが発起人となり11年12月に発足した「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」だ。

NPOが受け皿

 同会の拠点の一つ、さいたま市南区の資料室を訪ねた。「団体の解散で資料がなくなり、歴史が途絶えるのは寂しい。次代への受け皿をつくらねば」。本や書類の山に囲まれながら、同会事務局の栗原淑江さん(73)=東京都荒川区=が話した。1980年から約10年間、被爆者団体の全国組織である日本被団協の事務局員を務めた。

 東京都内との計3カ所に、被団協や個人から託された運動資料や証言集など約1万点を収集、保管している。さらに、閲覧もできる拠点として「継承センター」の建設を目指し、募金を呼び掛けている。

 同会は、入谷さんの活動を「継承のモデルケース」として支援しながら、資料散逸の歯止め役として奮闘している。和歌山県で2015年、栃木県で18年に解散した被爆者団体から、発行紙などを受け継いだ。

 各地で被爆者たちが自ら残した資料は、広島と長崎の原爆資料館にもない唯一無二の財産―。「民間と国が知恵を出し合い、将来につなぐべきもの」と栗原さん。だが国の財政支援はない。市民が手弁当で懸命に支えているのが現状だ。(河野揚、山下美波)

(2020年4月16日朝刊掲載)

関連記事はこちら

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <1> 米軍返還資料

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <2> 技術の進歩

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <3> 被爆者カルテ

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <4> 米軍撮影写真

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <5> 戦勝国の兵士

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <6> 被爆者手帳の申請書

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <8> 「原本」の重み

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <9> 被服支廠

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <10> 被爆者の「終活」

年別アーカイブ