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ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <8> 「原本」の重み

屋外動員 教師は反対

肉筆・肉声 生々しく

 広島県立文書館(広島市中区)は、県の元職員と遺族ら合わせて422人が45年前に寄せた原爆手記の原本を所蔵する。爆心地から約900メートルの木造庁舎は壊滅。職員1141人が犠牲になり資料の多くが焼失した。それだけに手記は、被爆前の県政を知るための貴重な記録といえる。

 122人分が1976年に「広島県庁原爆被災誌」として刊行された。広島では、学徒約7200人が原爆に命を奪われた。うち8割が、建物疎開に動員されていた。一体どんな経緯があったのか。戦争の中で「まっとう」な声がどう押し切られたのか。一部は抜粋ながら、実情が垣間見える。

 学徒勤労動員本部が置かれた県の兵事教学課に勤めていた長谷川武士さん(93年に90歳で死去)は、45年7月初旬に軍、県、市と各校の代表者による協議に出席した。防火帯の空き地を作るため、市中心部で民家を強制的に壊す建物疎開作業について話し合われた。

 広島市では44年11月の内務省告示を受けて始まっていた。中学1、2年生たちまで動員するのか―。米軍空襲への危機感が増していた時期。学校関係者は、避難の困難さなどを理由に反対した。すると「軍責任者は軍刀で床をたたきながら、作戦遂行上幼少な学徒の出動は当然であるとして、(県の)内政部長に決断を迫った」。

割愛された述懐

 元教員たちでつくる「建物疎開動員学徒の原爆被災を記録する会」の佐藤秀之さん(75)=南区=は「悲劇の裏にあった教師たちの憂慮、軍の強圧的な姿勢がよく分かる」と話す。

 佐藤さんたちは2004年、長谷川さんの手記の原本を原爆資料館の企画展で見つけた。同年、子どもが教室から動員されていった背景を伝える冊子「慟哭(どうこく)の悲劇はなぜ起こったのか」を作り、展示公開された部分を活字にして載せた。

 1976年刊行の被災誌では割愛された述懐が、原本では生々しい。学校関係者は「口を揃(そろ)えて危険だと極力反対」したこと。軍刀で床をたたいたのは「〇〇中将」だったこと。会の調べでは、中国軍管区の司令官らしい。県内政部長は「沈思黙考」し、やむなく出動を決めたという。結局、2人とも被爆死した。

筆者索引づくり

 記者はさらに、長谷川さんの遺族から承諾を得て原本の全文を読んだ。「今日の判断では、出動拒否が正当で、学徒を強く守るべき」だったと悔恨していた。戦前は小学校長、戦後は大学職員を務めた長谷川さんが次世代に伝えたかった教訓といえる。一次資料の「原本」を網羅してこそつかめる事実がある。

 75年前にすでに「大人」だった人の体験を聞くことは、年々難しくなっている。県立文書館は、県の被災誌に未掲載の300人分を含めたすべての筆者の索引づくりを始める考えだ。

 広島高等師範学校付属中(現広島大付属中・高)1年で被爆した新井俊一郎さん(88)=南区=は今年1月、古いカセットテープの音声をCDに移した。81年に恩師9人を招いて開いた「座談会」を録音した、約5時間分の音源だ。

 新井さんたち同校の1年生は、広島市から離れた原村(現東広島市)へ「農村動員」となった。「低学年の諸君を、食糧増産の名目で」「それは、県の命令に一種異なった立場がとれた国立のありがたさ…」。動員の受け入れ先を探した故宮岡力教諭たちが、事実上の疎開になるよう苦心した経緯をいずれも落ち着いた声で教え子に明かしている。もちろん、空襲を警戒してのことだった。

 座談会の概要は同級生と84年に刊行した「昭和二十年の記録」に載せた。「生徒の『全滅』を免れたのは、恩師の英断と苦闘のおかげだ。後世の人に、全編を通して知ってほしい」。CDを母校の同窓会などに託すつもりでいる。(水川恭輔)

(2020年4月17日朝刊掲載)

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