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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <9> 被服支廠

手記や遺品 国・市にも

建物と共に継承を

 1913年にできた赤れんが張りの巨大な倉庫4棟が、L字形に並ぶ。広島市南区の被爆建物「旧陸軍被服支廠(ししょう)」。爆心地から約2・7キロで焼失を免れ、直後から臨時救護所になった。大陸への出兵地となった「軍都」の記憶も刻まれる。

 3棟を持つ広島県は昨年12月、劣化などを踏まえて「2棟解体、1棟の外観保存」の原案を公表した。1棟を持つ国も保存に後ろ向きな姿勢を取ってきた。だが市民団体「旧被服支廠の保全を願う懇談会」は、全棟保存を強く求めている。4棟の高い歴史的価値を知ってもらおうと、3月に冊子「赤レンガ倉庫は語り継ぐ」を刊行した。

 冊子編集に合わせ、市民から資料を募った。内藤達郎事務局長(78)=佐伯区=は「これまで知られていなかった資料がいくつも寄せられ、驚きました」。軍服の縫製工場内の写真から、一時は数千人が勤めたとされる戦前の姿が伝わってきた。原爆で校舎を失った学校が教室に使っていた、復興期の一枚も残っていた。

 国と市の施設にも、関連資料は多く存在する。

 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)は、被服支廠にまつわる記述がある体験手記600編以上を所蔵する。「被服廠の保育所で砂遊びをしていてピカーと」(当時3歳男性)「朝鮮人の若い男の子が泣きながらお姉ちゃん扇であおいでという叫び声」(当時19歳の工員女性)。国が95年度の「被爆者実態調査」で募った手記の原本が中心だ。

多数の「体験者」

 原爆資料館(同)も同様だ。被服支廠で大やけどの遺体となっていた動員学徒のゲートル、ズボンの切れ端といった「実物資料」が収蔵庫に眠る。遺体が火葬される様子などを体験者が後に描いた「原爆の絵」は14枚。惨状を「倉庫の記録」につづった原爆詩人、峠三吉の当時の日記もある。

 市が台帳に登録している市内の被爆建物は86件。その中で戦前、被爆時、戦後を通してこれほど関連資料が伴う例はほとんどないだろう。大人数が出入りしていた巨大施設ゆえ「体験者」が多いのだ。

 県の試算では、耐震化と内部の活用を最大限に行う場合は「1棟33億円」で、外観保存だけなら4億円。懇談会は、国、市を加えた三者の連携強化を要望している。費用捻出のため、というだけでない。三者が資料を持つ「当事者」でもあると自覚し、市民や国内外から広島を訪れる人、将来世代にどう継承すべきか、知恵を絞るよう求めている。

固有の記憶刻む

 県の原案は、最も北にある1号棟の外観保存と2、3号棟の解体だ。三つとも「同じような倉庫」と思われがちだが、戦争と原爆を巡ってそれぞれに固有の記憶が刻まれている。

 「負傷者で足の踏み場もない」「吐瀉(としゃ)や下痢の跡がいっぱい」「一人また一人と息を引き取り」…。被服支廠にいた元動員学徒がそろって強調するのは、2号棟の惨状だ。物資がなく内部が空いていたためむしろがひかれ、広島一中(現中区の国泰寺高)1年生たちが収容された。

 救護した佐藤泰子さん(92)=廿日市市=は、息絶え絶えの生徒たちの姿を「原爆の絵」に描いた。懇談会の聞き取り調査に「全身が焼けただれ、服はきちんと身に着けていませんでしたが、あまりにふびんで、丁寧に着せた姿で描きました」と明かした。「水、水ください」と倉庫に反響した少年の叫び声を思い出すと、今でも胸が張り裂けそうになるという。

 あの日、あの空間に身を置いた人たちによる手記・絵や、犠牲者が身に着けていた遺品の数々。原爆を耐えて残る倉庫群という「現場」で目に触れることができれば、誰もが「この足元で起こったこと」を全身で受け止めるだろう―。そう思えてくる。県など三者に市民が加わって「知恵を絞る」ことが不可欠だ。(水川恭輔)

(2020年4月19日朝刊掲載)

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