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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 さまよう資料 <10> 被爆者の「終活」

痛みや歩み「継承を」

文書受け入れに課題

 1階の書庫と和室、2階の書斎、庭の物置。どこも大量の資料であふれている。床が抜けるのでは、と心配になるほどだ。一部は段ボール箱に収められてラベルが貼ってある。

積み重ねた記録

 被爆者で元教師の森下弘(ひろむ)さん(89)=広島市佐伯区=は、2年前から自宅で資料整理を進めている。「確かな事実や記録を、と常に集めてきましたが…」。穏やかな声で語る。子ども3人は離れて住んでおり、妻常子(ひさこ)さん(85)と2人暮らしだ。

 新聞の切り抜き、蔵書や手帳に、苦難を重ねながら世界とつながった被爆者、そして平和教育に心血を注いだ教師としての歩みが刻まれている。個人史を超え、ヒロシマの戦後史の記録でもある。

 森下さんは広島県立広島第一中学校(現中区の国泰寺高)3年だった14歳の時、爆心地から約1・5キロで強烈な熱線に襲われ顔や手足を焼かれた。母は被爆死した。戦後は結核を患う。広島大を24歳で卒業して書道教師の道に進んだが、生徒の前では顔のケロイドが気になり、内向的になりがちだった。

 転機は、結婚して長女が生まれた1963年。純真な寝顔が、焼け野原に転がっていた黒焦げの幼児と重なった。「あんなことが再びあっていいのか。自ら動かないと」。前年の「キューバ危機」で、世界は米ソ核戦争を恐れていた。

 64年に米国人の平和活動家バーバラ・レイノルズさんが提唱した「世界平和巡礼」に参加し、欧米を回る。被爆者が海外でわが身をさらして訴えを発信する活動は、ほとんど前例がなかった。米国では原爆投下時の大統領、トルーマン氏と対面した。「幼(おさ)ない命の沢山(たくさん)あることを考えなかったか」などとメモした。怒りとやるせなさがにじむ。

 レイノルズさんが65年に創設した平和発信と国際交流の拠点、NPO法人ワールド・フレンドシップ・センター(WFC)=西区=に当初から関わり、理事長を長年務めた。書棚には議事録やニュースレター約70冊が並ぶ。かたや平和教育の書類も膨大だ。「高校の教科書に原爆記述が少ない」と疑問を持ち、教材研究に没頭した。30代で一人で始めた「高校生の平和意識調査」は広島県内外に広がった。回答シートの原本に、若者の関心を巡る戦後の変遷が読み取れる。

 森下さんは、広島一中時代の同級生35人の意識調査も重ねた。1945年8月6日、一人一人に何が起こったのか。生存者は何を考えてきたのか―。被爆体験とその後の生き方を問うた。生徒353人、教職員16人が犠牲になった母校の原爆被害の全体像を明らかにする作業だった。

行き場なく廃棄

 「あの日」から今年で75年。「被爆体験を持つ者がいなくなった時代に役立ててもらいたい」と森下さんは願う。まだ段ボール箱の行き先は決まっていない。

 「終活」で資料を整理している被爆者は、ほかにもいるだろう。ただ、個人資料は公的機関での受け入れが難しい場合がある。本人や家族が廃棄してしまうことも少なくない。他者に明かせない、心身の痛みを記しており「見られたくない」という気持ちも働く。

 広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)で文書管理を担う久保田明子助教(49)は、事情の複雑さを十分に知った上で「できるだけ個人の『語りたくない』という思いも含めて伝えることが、被爆体験の次世代継承になるのではないでしょうか」と指摘する。

 資料という、時を超えて残るべき「証人」。新たな発見がある一方で、散逸や廃棄が進む。「資料の欠落は後々になって、事実が『なかった』という証拠にされかねない」と久保田さん。ヒロシマの「空白」が将来さらに広がらないための努力が、今の世代に課された宿題ではないだろうか。(山本祐司)

(2020年4月20日朝刊掲載)

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