×

連載 被爆70年

伝えるヒロシマ ① 爆心地の遺品 父の腕時計

 原爆の惨禍は本当に知られたのか。世代や国境を超えて共有されているのか。被爆70年が来年に近づく。生き抜いてきた人たちの証言や、さまざまな資料をあらためて見つめる。被爆の実態とそこから浮かび上がる思いを刻みたい。未来をつくる平和のあり方を考えたい。それが「伝えるヒロシマ」である。人が街ごと消し去られた爆心地の一帯で見つかった遺品から特集シリーズを始める。犠牲者の遺品を原爆資料館に寄せた家族の軌跡を追った。(「伝えるヒロシマ」取材班)

ドームでの死「想像してほしい」

 広島市南区西蟹屋町に住む池田文弥さん(80)は、父の形見を手に取ると、思わずこうつぶやいた。「この腕時計が話すことができれば、いいんですが…」。焼け焦げた文字盤に残る「SWISS MADE」(スイス製)の刻印が読み取れるだけの腕時計を、ドーム内で母と一緒に見つけた。

 「館内にいて被爆した者はすべて即死した。その数三〇人ばかり」と、市編さんの「広島原爆戦災誌」第2巻は記す。原爆さく裂のほぼ直下で遺骨の識別は大半がつかなかった。池田さん家族の腕時計は、原爆資料館が所蔵するドーム内の死没者が身に着けていた唯一の被爆資料でもある。

 1945年8月6日、父重義さん=当時(52)=は朝早く千田町(現中区)の自宅から関西石油合資会社へ出勤していた。事務所は、後に原爆ドームと呼ばれる県産業奨励館にあった。

 千田国民学校(現千田小)6年の文弥さんは、母コキクさん=同(47)=や兄博さん=同(23)=ら自宅にいた家族5人と被爆した。兄が右目を飛び散ったガラス片でやられ、広島赤十字病院で夜を過ごした。

 父を捜して翌7日、母や叔父と路面電車の軌道伝いに歩いて爆心地へ入った。「靴の裏が熱くなって着いたドームの中は崩れたれんがのがれきだらけ、元安川には数え切れないほどの遺体が浮いていました」

 再び9日に入り、がれきの山を動かすと、父が座ったような格好の白骨となって現れた。わずかに焼け残ったズボンの切れ端を母が覚えていた。そばにあった愛用の腕時計とともに骨を手拭いで包み、持ち帰った。

 母は、文弥さんの5歳上の兄で動員されていた和男さんも捜した。しかし行方は分からずじまいだった。

 大黒柱の父を奪われた被爆後は、「母が着物なんかを切り売りし」「右目を失った長兄が働いて僕らを支えてくれた」。文弥さんは大学を出て自動車販売会社に勤めた。博さんは77年に死去。家族の間でも、お互い原爆に触れることはなかったという。

 母は仏壇に供えていた腕時計を文弥さんと相談して85年、原爆資料館へ寄せた。「口にせんでも後世に本当のことを伝えたかったんでしょう」と推し量る。コキクさんは2000年、101歳で旅立った。

 文弥さんも体験を積極的に語る気持ちにはなれず、高校進学を控える孫にも話していない。「言葉で伝えるより、この腕時計を見てほしい。原爆を使うたら、どうなるかを若い人にも想像してほしい」。その思いを父の形見に託していた。

(2014年2月3日朝刊掲載)