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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ ① 爆心地の遺品 妻の鋏(はさみ)

涙と汗で掘り起こす

 「点々壘(るい)々無残な黒焦(げ)死体となつて八月の太陽に晒(さ)らされて居る」

 小川春蔵さんが、広島市が50年に初めて募った「原爆体験記」(165編)に寄せた一節である。新妻イツエさん=当時(21)=を捜して当日入った爆心地一帯の様子を原稿用紙11枚に詳しく書き残している。

 2人は結婚して広島市材木町(現在の平和記念公園)に住んだ。原爆が投下された時は、夫は徴用されていた広島県府中町の東洋工業(現マツダ)にいた。

 「自分も拾つて来たスコップを手に焼(け)跡へたつ。一掘(り)毎(ごと)に火が吹き出して来る」。壊滅から2日後、自宅跡で変わり果てたイツエさんを見つけて「涙と汗が白骨の上に音をたてて落ちて行く」。糸切り鋏と溶けたアルミ釜も収めた。

 春蔵さんは再婚し、子ども2人を授かった。

 長男清さん(62)=佐伯区=は「私らには体験を語ろうとしなかった。心に鍵をかけていました」という。手記の存在を知ったのも父が96年に84歳で逝った後。

 ただ、幼いころ8月6日は姉も連れられ、原爆慰霊碑へ必ず参った。普段は明るかった春蔵さんが道々泣く姿が焼き付く。夫の悼みを受けとめ、清さんの亡き母は自宅の仏壇へ線香を黙って供えた。

 イツエさんの家族の悲しみも癒えることはなかった。めいに当たる米山裕子さん(62)=安佐南区=は、「広島に帰していなければ助かったはずと、親きょうだいは長い間悔やんでいました」と語る。被爆の前日までは吉田町(現安芸高田市)の実家に初めて里帰りをしていた。

 今回、伯母の鋏があるのを知った米山さんは「生きた証しが残っていた」と喜び、イツエさんも眠る小川家の墓を1月末に参った。清さんたちきょうだいが一緒だった。

(2014年2月3日朝刊掲載)