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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ ① 爆心地の遺品 次女の弁当箱

母は自分責め続けた

 真っ黒に炭化した弁当箱は、少量の米に刻んだ大根を混ぜ、豆の煮物を入れていた。国の命令による建物疎開作業へ出る12歳の次女に母親が持たせた。

 持ち主は渡辺玲子さん。広島市立第一高女(現舟入高)の1年生だった。「あの朝、休みたいとせがむ姉を母のタカがたしなめて送り出したそうです」と、三女の益田直子さん(74)=中区=はいう。

 8月6日、市女1、2年生は、空襲への防火地帯を設けるための建物疎開作業へ前日に続いて動員された。当時の宮川造六校長が、十三回忌追悼誌「流燈」で作業直前の様子を表している。

 「西福院の土塀の南側に生徒を集めて朝礼を行」い、「水筒、弁当等(など)を塀の前におかせて(略)作業を開始した」。校長は県の呼び出しで現場を離れ、一命を取り留めた。生徒541人は全滅した。

 玲子さんの弁当箱は、第一県女(現皆実高)4年だった長女永井桂子さん(83)=堺市=が翌7日に見つけた。「私がアルミの弁当箱の裏に針で名前を刻んでいたので確認できました」。岡山郵便局に赴任中だった父茂さんも戻り捜したが、遺骨は見つからなかった。

 当時の住まいは五日市町(現佐伯区)。隣家の同級生は作業を休んで助かった。「母はどんなに自分を責めたことか。私も子ができて分かるようになりました」と直子さん。

 元安川に面する市女慰霊碑近くの寺に玲子さんの墓はある。両親は弁当箱を70年に資料館へ寄せた。母は88年に83歳で亡くなる前まで月命日に参り続けた。今は直子さんが受け継ぐ。

 「おいしいものが当たり前の時代になっても、母は申し訳なさそうに食べていました。責める気持ちが消えなかったんでしょうね」

 玲子さんの弁当箱はレプリカ(複製)が作られ、昨年は欧州クロアチアでの原爆展で紹介された。

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(2014年2月3日朝刊掲載)