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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ ② 名称も消えた町 尾道町(現中区大手町)

一家の足跡 願い託す

 粂(旧姓木原)博子さん(85)=横浜市神奈川区=は「私たちが広島にいたことを残しておきたくて」と、生まれ育った尾道町の自宅跡で両親の遺骨とともに掘り出した遺品を2000年、原爆資料館へ寄せた。

 原爆死した父八十吉さん=当時(63)=が日露戦争に従軍して受けた記章と、母テルさん=同(60)=愛用の抹茶茶わん。当時は比治山高女(現比治山女子高)専攻科に通っていた。

 尾道町は広島藩府が編んだ「知新集」によると、石工らが尾道浦(現尾道市)から移ってきた由来にちなむ。現在はNHK広島放送局をはじめビルが並ぶ。

 粂さんは「原爆前はフクロウの鳴き声も聞こえるほどの静かな町でした」という。路面電車が通る鯉城通りを挟む国泰寺には巨大なクスノキが茂り、フクロウがすみついていた。朝晩は鐘の音もとどろいた。

 女学校に進んだ41年の12月に日米は戦争に突入する。上級生になるにつれ授業より学徒動員が続いた。

 8月6日朝は、広島駅で前日からの出札業務を終えたばかり。ガラス片を浴びた体を引きずり、家族の避難先と決めていた可部町(現安佐北区)の伯母の元へ向かった。翌7日、約20キロの道のりを一人で歩き、変わり果てた尾道町へ戻る。「灰しか本当にないの。父や母を思うと、息苦しくて立っていられませんでした」。16歳で両親を失った。

 東京で家庭を持っていた兄を頼って上京し、23歳で通信会社に勤める夫と結婚。子ども2人を育て、夫の両親をみとった。初めての帰省は、母校の袋町小の同期会が還暦を機に開かれるのを知って。「広島を見せてやりたい」と、後に孫3人も伴った。同期会は80歳になるまでほぼ毎年参加した。「古里の光景は変わったけれど、戦争はいけないとの思いは消えてほしくない」。原爆の惨禍を体験した学徒世代の願いも両親の遺品に託していた。

(2014年3月3日朝刊掲載)