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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ ② 名称も消えた町 平田屋町(現中区本通)

商売 一代で途絶えた

 広島商工会議所が33年に発行した「商工人名録」を繰ると、「ヒラガキ鞄(かばん)店」は「廣島製夜具入の始祖」と紹介されている。広島を代表する本通り商店街の東側、旧平田屋町で、布団袋や肩掛けかばんを製造・販売していた。

 平柿啓作さん(71)=東広島市=は、店は52歳で原爆死した父保さんが一代で築いた、と聞いている。3歳まで店舗兼自宅で暮らし、「8月6日」は祖母と共に西高屋村(現東広島市)の疎開先にいた。母アヤノさんは前日から泊まりがけで平柿さんの様子を見に来ていて、一命を取り留めた。

 アヤノさんは焦土を歩き回り8月25日、本川橋近くにあった同業者の組合事務所で、白骨と化していた夫を見つけた。そばに眼鏡と「平柿保」と彫られた印鑑があった。店の跡取りだった長男大作さん=当時(27)=は、召集された基町(現中区)の兵舎で被爆し、搬送先の向原町(現安芸高田市)で21日息を引き取っていた。

 「大黒柱を一度に失い、幼子と老いた義母を抱えた母の苦労は大変なものでした」と平柿さん。アヤノさんは西高屋村で近隣の農作業を手伝いながら生計を立てた。「弱音をはいたことがない。気丈な母でした」。平柿さんも高校を卒業すると広島市内で就職し、母を手助けした。

 父の遺品の存在は、母が原爆資料館へ85年に寄贈するまで知らなかった。「ひそかにしまっていたようです」。94年に94歳で亡くなったアヤノさんは「墓は動かしたくない」と生前しきりに語っていた。本通り商店街近く、袋町の妙蓮寺で父や兄たちと眠る。

 平柿さんも母のこだわりが分かるという。広島では本通り商店街へ自然と足が向く。「原爆がなければ、私も商売をしたんだろうなと…」。古里を聞かれれば本通と答える。スズラン灯が続き「ヒラガキ」の看板も写る商店街の写真など集めた記録を、いずれ子や孫に引き渡すつもりだ。

(2014年3月3日朝刊掲載)