×

連載 被爆70年

伝えるヒロシマ ③ 12歳の「戦死」 妹の制服と日記

 広島原爆の特異性に、少年少女だった動員学徒のおびただしい犠牲がある。旧制中学や女学校を中心に48校で7196人の原爆死が確認されている。多くが1945年8月6日朝、広島デルタでの建物疎開作業に従事していた。国の命令により、米軍の空襲に備えて大規模な防火地帯を設けるため動員されていた。52年制定の戦傷病者戦没者遺族等援護法で「準軍属」となり、「戦死」ともみなされる。未来を断たれた学徒の生と死を、被爆した兄や姉の証言とともに追う。(「伝えるヒロシマ」取材班)

8・5の絶筆「一日一善まもらう」

 県立広島第一高等女学校(現皆実高)1年の石崎睦子さん=当時(12)=は「八月五日 日曜日 天候晴」と書き入れ、前日も変わらずに日記を付けていた。転校してきた級友に午前中は勉強を教え、午後は川で泳いだことを記し、「今日は大へんよい日でした。これからも一日一善と言ふことをまもらうと思ふ」。それが絶筆となった。

 姉の植田䂓子(のりこ)さん(82)=広島市東区戸坂くるめ木=は県女2年だった。「妹は作業にかぶる麦わら帽子を買うお金を母からもらい、うれしかったと思います」と、8月6日朝の光景を語る。舟入川口町(現中区)の住まいから一緒に出て、睦子さんは小網町(同)一帯の建物疎開作業へ、䂓子さんは動員が続いていた南観音町(同西区)の広島印刷へ向かう。何げなく別れたという。

 䂓子さんは被爆後、己斐町(同)の山中を級友らと目指した。翌7日、家族の避難先と決めていた農家で両親や末の妹と無事を確かめ合ったが、睦子さんはついに現れなかった。

 父秀一さん=当時(42)=は次女を捜し歩いて約2週間後、作業現場跡のがれきの下から制服の上着を持ち帰った。「父の着物の生地を使った」上着は、作業前に折り畳んで物陰に置いていたらしい。学校名・名前・血液型を書いて胸元に縫い付けた名札と、「広島学徒隊 第一県女」の袖の記章も焼失を免れていた。同じ作業現場に出た1年223人が死去した。

 母安代さん=同(37)=は泣き崩れ、制服を抱いて寝るようになった。日記があることを、䂓子さんたち子どもには告げず保存していた。初めて見たのは睦子さんの三十三回忌。䂓子さんは短大を卒業して結婚し、一人息子を授かっていた。母の悲しみや悼みが胸を突いた。

 睦子さんの日記は、「この感激で一生懸命勉強しやうと思つた」と、県女入学の4月6日から始まる。しかし、授業は空襲警報でたびたび中断する。5月7日からは午前と午後の「二部式授業になつた」。食糧増産のため吉島飛行場(現中区)や東練兵場(同東区)での開墾作業も続いた。

 疲れても「兵隊さんのことおもつて」自らを戒め、「米英をどうしてもやっつけなければ」と誓う。同時に級友や家族との語らいに胸を弾ませる。戦時下の日々をけなげに過ごしていたのが日記から浮かび上がってくる。

 「物心ついた時から学校で日清、日露戦争の勝利や美談も聞いて育ち、国のために役立ちたい一心でした」。䂓子さんは動員学徒だった時代の精神を語る。

 戦況の悪化が進んだ44年2月、「決戦非常措置要綱」が閣議決定され、中学生以上の工場動員が強化されても不満は覚えなかった。それどころか「戦争に負けるとは想像もできませんでした」と振り返る。

 自らの被爆体験と妹の死について、修学旅行生らに20年以上にわたり証言している。ヒロシマ修学旅行を70年代後半から推し進めた東京の中学教諭江口保さん(1998年、69歳で死去)からの要請だった。江口さんは長崎県立瓊浦(けいほ)中で被爆し、晩年は広島に移り住み活動に取り組んだ。

 「戦争は国民みんなを巻き込む。子どもにも容赦しない。その恐ろしさを知ってほしい。学徒たちはそうした中でも懸命に生きたんです」

 䂓子さんは体力が続く限り学徒として体験した戦争と原爆を証言するつもりだ。

(2014年4月7日朝刊掲載)