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連載 被爆70年

[伝えるヒロシマ 被爆70年] 二中生の死没 新たに判明 動員途中に被爆の吉長さん 慰霊碑に名前 同級生ら望む

 1945年8月6日の原爆投下で犠牲となった1年生321人を刻む広島二中(現観音高)の慰霊碑で、刻銘されていない原爆死没者がいることが分かった。吉長隼人さんといい、動員先に向かう広島駅で被爆して2年後に15歳で死去していた。同じ場所で被爆した同級生3人が証言を寄せ、おいの案内で墓参もした。「碑に名前を刻んであげたい」。6日の二中慰霊祭で働き掛ける。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 吉長さんは現東広島市の出身。「8月6日」は、現在の広島市中区の平和記念公園南側一帯の建物疎開作業に動員された。東広島方面からの1年生約10人が乗った列車は、空襲への警戒警報が出て到着が遅れた。

 原爆さく裂の瞬間は、爆心地から約2キロの広島駅前で路面電車を待っていた。「吉長君は焼かれた首の辺りのケロイドがひどかった」と、中野英治さん(82)=東広島市=は証言する。

 現西条小から共に二中へ進んだ、玉川祐光さん(83)=安芸高田市=は「私がようやく復学した冬に吉長君もいたが、やがて姿を見なくなった」と続けた。二中は、現西区観音本町の校舎が全焼し、45年9月から海田町など市郊外三つの分教場で授業を再開していた。

 おいの藤田寿男さん(76)=東広島市=は、父の戦死で母の実家の吉長さん宅で一緒に暮らした記憶をたどり、「叔父は1年くらい入院して死にました」という。47年9月28日だった。

 吉長さんの生家は酪農を営んでいたが現在は、きょうだいも全員亡くなった。JR西条駅近くの墓は藤田さんがみている。石井叶(かなえ)さん(82)=同=は「原爆の前、『家で採れた牛乳だ』と動員先に持参して分けてくれた」と墓前でしのんだ。

 3人は「原爆で卒業できずに倒れた吉長君の名前が二中慰霊碑にないのは、ずっと気になっていた」と、胸のつかえを吐露するように話した。藤田さんも「できるなら碑に名前を入れてほしい」と望んだ。

 二中遺族委員会が61年に建立した慰霊碑は動員現場跡の本川左岸に立つ。死没状況を追った中国新聞「遺影は語る 二中編」の報道を受けて翌2000年、碑保存会は、新たに分かった2人を刻み、生存者2人の名前を削った。碑には46~48年の死没者も刻まれている。

(2015年8月3日朝刊掲載)