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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 被爆学徒 <4> 「昭和20年入学」碑会 級友追悼 つらくても

 広島市中区の平和記念公園そばを流れる本川左岸に23日、6人の男性が集まった。

 元鳴門教育大学長の溝上泰さん(83)=尾道市=は「今日は新入生のような気持ちで参りました」と70年ぶりに再会した同級生にあいさつし、左岸に立つ慰霊碑に手を合わせた。

 いずれも1945年、広島二中(現観音高)へ入学した。8月6日、旧中島新町の建物疎開作業に動員されこの場に集合した1年生は全滅した。碑には321人の名前が刻まれる。

転校の後ろめたさ

 溝上さんは、袋町国民学校からの亡き友の名前をじっと見詰め、二中1年生のころを語った。市立高女(現舟入高)教諭の父昇さん=当時(38)=と富士見町(現中区)に住んでいた。母や弟妹は父の郷里である現尾道市へ疎開していた。

 入学後は軍事教練が続く毎日。自宅で米軍機の機影を見て、防空壕(ごう)に逃げた。「身が震えるほどの恐怖を覚え、父に頼み込んで母たちのもとへ移ったんです」。尾道中(現尾道北高)へ5月転校した。

 「生徒を連れて建物疎開に出る。よく勉強するように」。疎開先への手紙でそう記した父は、遺骨すら見つからなかった。広島を離れたことに後ろめたさを感じ、二中に在籍したことは長い間、表だって口にしなかった。

 今、溝上さんは御調町原爆被害者協議会(尾道市)の会長を引き受ける。そのことを新聞で知った光成洋さん(83)=安佐南区=が「昭和20年」入学24期生でつくる「碑(いしぶみ)会」への参加を促した。共に4学級に在籍していた。

 光成さんは「転校と父の死、私もそうでした」と明かした。自身は7月、伯父がいた府中市に母たちと疎開。残った、竹屋国民学校教頭の父選逸(せんいつ)さん=当時(42)=は学校で原爆死した。

 会員は現在、関東地方を含め14人。昨年に亡くなった時安惇さんが99年から、数少ない上沈黙する同級生の消息を追い、8月6日の慰霊祭への参列を会として始めるようになった。

 高さ1・5メートル。横5メートル。名前を刻む慰霊碑は61年、二中戦災死没者遺族委員会が建立した。宮郷安輝さん(82)=廿日市市=は「同級生のお父さんお母さんに顔を合わせるのがつらくて…」と述懐した。時安さんと会の結成を呼び掛けた。

列車遅れなければ

 玉川祐光さん(82)=安芸高田市=が「列車が遅れなかったら生き残らなかったでしょう」と切り出すと、中野英治さん(82)=東広島市=と石井叶さん(82)=同=もうなずいた。

 3人は山陽線で通っていた。現東広島市方面からの同級生は約10人いたという。「あの朝」乗った列車は午前7時9分に出た警戒警報のためしばらく止まった。解除は同31分だった(「広島原爆戦災誌」)。

 原爆の瞬間は広島駅前で路面電車を待っていた。爆心地から約2キロ。熱線を浴びた玉川さんは何とか自宅にたどり着いた。「加納君のお母さんが『うちの子は!』と訪ねてこられた。悲痛な声が忘れられません」。西条国民学校から共に入学した加納文治さん=当時(12)=は、遺族によると遺骨も不明だった。

 参拝後の昼食の席。「制服は先輩のお下がり」「教科書はどうだった?」。戦下の中等学校の思い出も話題となった。戦後は教育学者を歩んだ溝上さんは、穏やかな口調でこう話した。

 「中学生はまさにこれから人生が始まる。それが突然に命を断たれた。空襲の危険が明らかな作業へ道具のように大量動員した学校教育も、あってはなりません」

 玉川さんは被爆の証言活動に取り組む。「同級生の死は平和の礎になったことを知ってほしい」と思うからだ。

 碑会は「会員がゼロになるまで続けよう」と誓い合う。おびただしい同級生の死を悼み、崩れぬ平和を願う。そう思うからあえて取材を受け、集まったのだ。

(2015年6月29日朝刊掲載)