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連載 被爆70年

[ヒロシマは問う 被爆70年] フクシマの衝撃

 2011年3月、東日本大震災に伴って発生した福島第1原発の事故から間もなく4年がたつ。国際評価尺度(INES)でチェルノブイリ原発事故に並ぶ「レベル7」の深刻な被害。「核と人類は共存できるのか」とあらためて問い掛ける事故だった。被爆から70年を迎えるヒロシマも、フクシマを機に変化を見せている。自らの意識や歩みを見つめ直す被爆者や、脱原発の訴えに踏み出す被爆者団体の今をたどる。(道面雅量、藤村潤平)

被爆者団体

脱原発の訴え 踏み出す

日本被団協、運動の柱に

核兵器廃絶、願いも重ね

 広島市から南西へ約100キロ。被爆地から最も近い原発である四国電力伊方原発(愛媛県)では、2011年12月から運転差し止め訴訟が続く。原告には、愛媛県原爆被害者の会の会員が多く名前を連ねている。

 「私たちは福島第1原発の事故で深く反省させられた」。事務局長の松浦秀人さん(69)は率直に語る。事故が起きるまで、国内に原発が54基もあるとは知らなかった。法廷では胎内被爆者として抱えてきた不安を述べ、「原爆と原発は双子の兄弟」と脱原発を主張した。

■30団体で集会

 昨年11月、さいたま市であった「さよなら原発埼玉県民集会」。市中心部を練り歩く参加者の先頭に、日本被団協事務局長の田中熙巳(てるみ)さん(82)=埼玉県新座市=の姿があった。県被団協を含む30団体による実行委員会の委員長として、県内最大級の脱原発イベントをリードした。

 年1回のイベントは、3年前に始まった。運営メンバーから「被爆者に引っ張ってもらうと団体がまとまりやすい」と請われ、委員長を引き受けた。「被爆者だからこそ果たせる役割がここにもあった」

 日本被団協が1956年に出した結成宣言は、「原子力の平和利用」を明確に支持していた。田中さんは「核のような強大な力は、殺りくのためでなく人間の幸福のために最大限使ってほしいとの願望があった」と振り返る。

 その後、米国のスリーマイル島や旧ソ連のチェルノブイリの原発事故を受けて「原子力に替わるエネルギー政策を求める」との運動方針を掲げたが、廃炉自体は求めてこなかった。賛否が分かれる原発の問題に踏み込むより、核兵器廃絶に運動のエネルギーを集中すべきだとの意見が強かったからだ。電力業界で働く被爆者がいることへの配慮もあった。

 転機は、福島第1原発事故だ。

 田中さんは「放射能の被害は目に見えず、絶えず不安を与え続ける。原発はなくすべきであると、ほとんどの被爆者が自覚した」と強調する。事故から4カ月後、被団協は東京都内で開いた代表理事会で、原発の新設、増設計画の撤回▽既存の全原発の操業停止、廃炉―を運動方針に盛り込むことを決めた。以後、「脱原発」は運動の柱になった。

■自戒を込めて

 一方で今、首相官邸前の脱原発運動の訴えに「核兵器廃絶」の言葉はない。リーダーの一人で、広島市南区出身のミサオ・レッドウルフさんは「私自身は核兵器もなくすべきだと思う」と語る一方、「廃絶を訴えると、運動はバラバラになる」と懸念する。身近な原発には反対で一致できても、核兵器になるとイデオロギーや抑止力を含む安全保障の問題として受け取られる傾向があり、参加者の中でもスタンスは異なるという。

 田中さんは、脱原発に焦点を当てた運動に、かつての自分たちの姿を重ねる。「原発が危険と思うなら、核兵器はもっと危険。日本の原発は事故を起こすはずがないと多くの人が思っていた。核兵器がいつ使われてもおかしくないという想像力も持ってほしい」。自戒を込めてそう訴える。

日本の原子力政策と被爆者運動に関わる主な出来事

1945年 8月 広島・長崎に原爆投下
  54年 3月 第五福竜丸事件
      4月 初の原子力関連予算が成立
  55年 8月 第1回原水爆禁止世界大会
      9月 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)発足
     11月 東京で原子力平和利用博覧会が開幕。翌年5月には広島でも
     12月 原子力基本法制定。三原則に「民主・自主・公開」
  56年 1月 総理府(現内閣府)に原子力委員会を設置
      5月 広島県被団協結成
      8月 日本被団協結成
  57年 4月 原爆医療法施行
      7月 国際原子力機関(IAEA)発足。日本も加盟
  61年11月 核兵器禁止・平和建設国民会議(核禁会議)発足1・14   63年10月 茨城県東海村で日本初の原子力発電
  64年 7月 原水禁運動の路線対立から、広島県被団協が同じ名前の2団
         体に分裂
  65年 2月 原水禁国民会議(原水禁)発足
  68年 9月 被爆者特別措置法施行
  70年11月 原水禁が「原発反対」を掲げた初の全国連絡会議
  71年 3月 福島第1原発が営業運転開始
  74年 3月 中国電力の島根原発1号機が営業運転開始
  76年 6月 核拡散防止条約(NPT)に日本が加盟
  79年 3月 米スリーマイルアイランド原発で事故
  82年 6月 山口県上関町長が町議会で原発誘致の意向を表明
  86年 4月 旧ソ連のチェルノブイリ原発で事故
  95年 7月 被爆者援護法施行
     12月 福井県敦賀市の高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事
         故
  99年 9月 茨城県東海村の核燃料加工会社JCOで臨界事故
2001年 1月 原子力安全・保安院を新設
  03年10月 「原発推進」を盛り込んだ第1次エネルギー基本計画決定
  11年 3月 東日本大震災に伴う福島第1原発事故
      6月 日本被団協が「脱原発」を国に求める運動方針決定
  12年 9月 原子力安全・保安院を廃止し、原子力規制委員会、原子力規
         制庁が発足
  14年 2月 原発を「重要なベースロード電源」と位置づけ、再稼働を進
         めるとした<第4次エネルギー基本計画決定

被爆者アンケートから

「核」に依存しない社会目指す 52.6%

 被爆者として実行していきたいこと、大切にしたいことは―。中国新聞社が被爆70年を前に全国被爆者アンケートでそう尋ねたところ、52.6%が「原子力発電も含め、『核』に依存しない社会を目指す」を選んだ。「核兵器廃絶へ、日本と各国にいっそうの外交努力を求める」(60.5%)に続き、九つの選択肢のうちで2番目の多さ(複数回答)だった。  自由記述欄には福島第1原発の事故を被爆者としてどう受け止めたかや、政府の原発政策に対する率直な思いなどもつづられていた。一部を要約して紹介する。

あらためて被爆者の自覚

◆被爆して白血球が減り、病気がちの苦しい人生を送ってきた。福島の原発事故がなければ、過去のこととして記憶を消してしまいたいと思っていたが、核兵器は恐ろしいと声を大にして伝えたい。子供に孫にと伝えてゆく。(70代女性・東京)

◆核兵器も原発もいったん爆発・事故を起こせば、取り返しのつかない非人道的な被害をもたらす。私自身、加齢にプラスされる放射線の影響への不安が年々大きくなるが、そんな思いは被爆者だけでたくさん。「二度とヒバクシャをつくらないで」と若い人たちに伝えたい。今後、語り伝えに積極的に取り組もうと考えている。(70代男性・千葉)

◆原爆の悲惨さ、原爆症の苦しみ、病気発症へのおびえ、発症しての苦しみ。これらのことを若い世代に語り伝えていきたい。福島の原発事故に見る、多くの人の苦しみ。原発に頼らない、自然エネルギーへの転換の必要性を伝えていきたい。(70代男性・東京)

平和利用 問い直すとき

◆原発による新たなヒバクシャが生まれつつある。被爆者でありながら、「平和利用」をうたう原発を安易に容認してきた自分が恥ずかしい。(70代女性・兵庫)

◆現在の原発は本当に平和利用なのか、核廃絶につながっているか、若い人によく考えてほしい。(70代男性・大阪)

◆日本は原発の使用済み核燃料から出るプルトニウムを核兵器5千発分持つともされ、原爆が造れるといわれる。「原発ゼロ」にしなくてはならない。(80代男性・広島)

◆原発稼働によって生まれるプルトニウムが核兵器の材料になるから(抑止力として)原発を維持すべきだとする議論、これには絶対反対すべきだ。(80代男性・鳥取)

原発政策への率直な思い

◆被爆国である日本が核兵器廃絶、脱原発運動の先頭に立つのが本筋なのに、他国に原発の売り込みに行脚している状況は許せない。(80代男性・北海道)

◆原発事故の収束の仕方も分からないまま、国は原発を輸出しようとしている。理解できない。(69歳以下女性・東京)

◆いったん事故が起こったら、核は人間の力で制御できない。チェルノブイリや福島の事故でよく分かっている。絶対安全ということがないのだから、原発は再稼働すべきではない。(70代女性・佐賀)

◆原発の再稼働を許してはいけないし、輸出するなどもってのほかだ。原発を輸出して、その国で事故が起きたり、プルトニウムを使って核爆弾を造られたりしたら、責任どうこうの話ではなくなる。(70代男性・東京)

◆核という強力、威力のあるものを見いだした人類が、将来使わないことはない。人類のために平和利用の努力は続けるべきだ。恩恵も恐ろしさも直視して。(80代男性・兵庫)

未来見つめ 願いさまざま

◆平和な時代に生まれた若者たち。原発による電力で安定した生活を経験し、核兵器について現実感はないかと思う。だが、福島の事故で核の問題の重大さは周知された。近年に起きたことを通じ、分かりやすく伝えていきたい。(69歳以下女性・広島)

◆日本人とは何と忘れっぽい民族なのか。戦争、被爆、原発事故、すべてがなかったことのようだ。放射能の怖さも忘れてまたぞろ、原発を再稼働しようとしている。私は豊かで便利だが危険を伴う生活より、貧しく不便でも安全で平和な生活を送りたい。(70代男性・長野)

◆資源の絶対的不足を考える時、「原発ゼロ」と理想論ばかりも言っておれまい。若い世代は原爆の悲惨さには実感がないかもしれないが、原発事故の怖さは記憶に新しいと思う。話し合い、柔軟な思考に期待したい。(70代男性・東京)

◆ひょっとしたら人類は放射能にまみれて滅亡するかもしれないと思うことがある。しかし、厳しい状態に追い込まれるほど克服する知恵が働き、乗り越えられると思いたい。克服する方向に一歩でも推し進めて一生を終わりたい。(80代男性・東京)

◆現在も核兵器は存在し、原発は非常に身近にある。若い人たちが現状を自分の問題として受け止め、自分にできる行動を起こしてほしい。(80代女性・広島)

被爆者

自らの歩み 見つめ直す

原爆も原発も制御し切れはしない

福島在住・星埜さん

 自宅の「除染」が始まったのは、事故から3年近くたってからだった。屋根の洗浄に始まり、半年余りして、今度は庭の表土を除去。周辺では今もぽつり、ぽつりと作業が続く。「正直、何をいまさらという感じはするね」。福島第1原発から約65キロ。福島市内に住む被爆者の星埜(ほしの)惇さん(86)はつぶやく。

 だが、それだけ時間がかかることが汚染の広大さ、深刻さを示す。事故現場の発電所では汚染水対策が難航し、廃炉の工程も遅れをきたしている。周辺の避難指示区域は今なお10市町村の約千平方キロ(1月現在)に及ぶ。

 「取り返しのつかない被害。特に、慣れ親しんだ土地から引き剝がされた人のことを思うとたまらないね」。福島県原爆被害者協議会事務局長として、震災・事故の直後から、約70人いる会員の所在確認に心を砕いてきた。「県外に移住した人、避難先からまだ帰れない人もいる。被爆者に限らなければどれだけになるか…」

 東京大農学部を卒業後、福島大の教壇に立ち、学長も務めた農業経済の専門家。福島の農漁村を調査に歩き、先祖伝来の土地に対する人々の愛着をよく知るだけに、事故の罪深さを痛感する。

 「原発関連の仕事に就いている人も多い地だから、被爆者運動の中で脱原発はあまり主張できなかった。でも今は違う。口にしていかないとね」

 70年前の8月6日朝、広島から実家のあった呉へ向かう列車内で、窓から「青い光」が差したのを感じた。広駅(呉市)で降りて振り返ると、きのこ雲が盛り上がるのが見えた。17歳、旧制広島高1年の時だ。

 翌朝から救援に歩き回った広島の光景は脳裏に焼き付いている。寮に連れ帰った学友は顔面が炭化し、唇を水でしめらせてやるのがやっとだった。「目の前にある福島の光景とは異なる。でも、根っこは同じ原子力だ」。実感を込めて語る。「原爆も原発も、人間が制御し切れるものではない」

倫理上許されるのか 研究者の疑念

東京在住・佐野さん

 東京都三鷹市に住む佐野博敏さん(86)は、放射性元素の化学的な振る舞いを研究する放射化学の専門家だ。大学生向けの教科書も執筆し、原子力産業の基礎ともなる研究分野を支えてきた。

 福島第1原発の事故後、一つの問いが頭を離れないという。「原発は倫理上、許されないのではないか」。星埜惇さんと同い年の広島の被爆者。「今は彼と同じ思い」と語る。

 長く東京都立大(現首都大学東京)で教え、総長も務めた。同大へ誘ってくれたのは東京大理学部の後輩で、後に反原発の在野研究者として知られた故高木仁三郎さん。だが、「高木君とは距離を置いてきた」。佐野さんの持論は「核物質は、うまく閉じ込めさえすれば安全で役立つ」。日本の技術力に確信を抱いてきた。

 福島の事故後、疑念が生じた。「技術力に対して、ではない。技術はあっても人間は失敗を犯す。そして、原発は失敗の取り返しがつくか」。今の思いを、地元の被爆者団体の集いや会報で率直に伝えている。「自分の中に安全神話があった」

 原爆投下の翌朝、大竹市内の動員先から母を捜しに広島市街に入った。広島県坂町の救護所で再会するまでの5日間、焦土の街を歩き回った。広島工業専門学校から東京大で放射化学の道に進んだのは、「原爆の正体に迫りたい思いもあった」から。専攻を母に告げると「よりによって」と嘆かれたという。

 1954年、同大大学院生の時に第五福竜丸事件が起きた。研究室の屋上で放射能を含む雨を集めて回った。「今思うとあさましいが、研究素材として重宝した」。セシウム137、ストロンチウム90…。そんな放射性元素の名が当時、汚染を心配する人々の日常会話にも飛び交った。「そんな時代がまたやって来て、しかも長引いている」。険しい表情で語る。

 「核物質を完全に閉じ込め切れないのが人間。無害化まで何万年もかかる核汚染は倫理上許されない。可能性から絶つべきだ」。ヒロシマに原点を持つ学究の果ての結論だ。

東京経済大・藤原修教授に聞く

繰り返した「失敗」 どう克服するか

 被爆国で起きた福島第1原発の事故。それが核兵器廃絶を目指す運動や世論に突き付けているものは何か。原水爆禁止運動など日本の平和運動史に詳しい東京経済大の藤原修教授に聞いた。

 ―事故から4年がたとうとしています。被爆国の世論にどんな影響を与えたと見ますか。
 核兵器廃絶を世界に訴えてきた日本が世界有数の原発大国であることに、大きな矛盾があるのではないかと、国民が考えるきっかけとなった。原爆の被害、被爆者の問題に比べ、原発労働者の被曝(ひばく)などは十分に顧みられてこなかったのではないか。そういう反省をもたらした。

 ただ、核兵器廃絶の訴えは、平和の理念を掲げる国民的合意に基づいている。脱原発の訴えとは理念や基盤が異なる。両者をつなげるためには、その自覚と工夫が必要だろう。

 ―「核と人類は共存できるのか」という共通の問いをあらためて投げ掛けた面もありませんか。
 初期の原水禁運動が、第五福竜丸の被災に続く「放射能マグロ」の問題で高揚したことを思い起こしたい。原水爆の禁止が日常の生活に関わることとして鋭く意識され、幅広い人々を巻き込んだ。フクシマも、食の安全やエネルギーなど日常生活に深く関わっている。

 核兵器はもはや、戦争の手段と見なし得ないほどに非人道的と認識されてきている。今回の大事故は、「平和利用」を含めた原子力そのものが、人間社会の制御を超えるのではという疑問を突き付けた。その意味では、まさに「人間と核」が共通して問われている。

 ―被爆国でフクシマの事態が起きたことの意味をどう考えますか。
 戦後の日本は、軍国主義や非科学的神話と決別し、平和と民主主義、科学技術の国として歩んだはずだった。それが史上最悪レベルの原発事故という、かつての戦争と同様、あってはならない失敗を再び犯した。

 戦争を止められずにヒロシマ・ナガサキを招いた「不敗神話」と、原発依存を止められずにフクシマを招いた「安全神話」。そこには、異論を遠ざけ、封じ込める日本社会の弱点が通底している。専ら非核政策と憲法の堅持に意を注いできた平和運動の現場を含め、それをどう克服するか。民主主義の鍛え直しが鍵になる。

ふじわら・おさむ
 東京大法学部卒。同大助手、明治学院大国際平和研究所特別所員などを経て、2007年から現職。編著書に「いま平和とは何か」など。

(2015年1月31日朝刊掲載)