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連載 被爆70年

[伝えるヒロシマ 被爆70年] 昭和天皇 惨禍を強く意識 原爆写真集閲覧 「8・6」翌日から撮影

 昭和天皇が、原爆の惨禍を具体的に確かめていたことを浮き彫りにする資料があった。宮内庁宮内公文書館が保存する「昭和二十年八月六日広島市戦災記録写真帖(ちょう)」だ。被爆地ヒロシマをめぐり、存在が70年ぶりに分かった貴重な資料を読み解く。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ…」。終戦詔書が広島・長崎に言及したように、戦争終結を決断した昭和天皇は原爆投下と惨禍を強く意識していた。

9月に侍従派遣

 降伏文書調印を翌日に控えた1945年9月1日、永積寅彦侍従(94年死去)を広島へ派遣。陸軍船舶司令部が作成した「写真帖」は、廃虚の広島へ3日に入った侍従が携えて戻ったとみて間違いない。

 船舶司令部は現在の南区宇品海岸にあり、各部隊は8月6日の直後から救援に出動し、重傷者を沖合の似島へ運ぶ。写真班員で翌7日からカメラを向けた尾糠(おぬか)政美さん(2011年死去)は、「命令だけれど躊躇(ちゅうちょ)した」とすさまじいまでの撮影だったことを証言している。

 尾糠さんが撮った全身やけどの男女は、連合国軍総司令部(GHQ)の占領が明けた52年8月6日号の「アサヒグラフ」が「原爆被害の初公開」と冒頭に掲載した。特集号は反響を呼ぶ。55年に開館した原爆資料館も展示を続ける。

 このカットをはじめ人間にあってはならない体験の記録を「写真帖」はいち早く収めていた。写真班川原四儀(よつぎ)さん(72年死去)が8月9日、焦土を回り撮った数々の被害状況もあった。「写真帖」45点のうち、新大橋(現中区の西平和大橋)などで撮った6点はこれまでにないカットでもある。

ニュース映画も

 被爆史を研究する宇吹暁・元広島女学院大教授は、一連の資料からこうみる。

 「昭和天皇は、国民が知ることができなかった被爆の実態について最良質の情報を得ていた。深い関心を寄せていたともいえる」

 それは「昭和天皇実録」45年9月23日の記載からも浮かび上がる。「夜、広島における原子爆弾被害に関する日本ニュース映画を、皇后と共に御覧になる」

 日本映画社が永積侍従の視察を撮った日本ニュース「原子爆弾 広島市の惨害」だ。「原爆の恐ろしさは放射能によって生命が奪われる」との解説が映像に重なる。GHQは既に19日、原爆報道を検閲するプレスコードを発していた。

 今回、「写真帖」とともに、広島県や広島市などが被害や救護状況をまとめ提出した文書類「侍従御差遣録」の現存も分かった。

 「行方不明 五四七四(殆(ほとん)ド死亡センモノト推定…」と動員学徒の被害の甚大さや、市の「迷子収容所」に引き取った子どもらが「有毒瓦斯(ガス)ノタメカ下痢…」と、未曽有の事態が続いていたのが浮かび上がる。

 昭和天皇に提出された原爆記録写真や被害報告書の内容は、被爆直後の実態に迫る一級の資料だ。

(2015年6月28日朝刊掲載)