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連載 被爆70年

[ヒロシマは問う] 70年「被爆者」置き去り 米トリニティ・サイト ルポ 

線量 自然界の10倍 「子や孫の代にも悪影響」

 「核時代」は70年前の1945年7月16日、米国ニューメキシコ州のトリニティ・サイトで始まった。敷地を管理する米軍ホワイトサンズ射場の許可を得て現地を取材。周辺のトゥラローサ村で、「忘れられた被爆者」の訴えを聞いた。(金崎由美)

 同州の主要都市アルバカーキの南約150キロ。車で進むと、枯れ草色の広大な草原の中に、高さ約3・6メートルの記念碑が現れた。フェンスには「注意 放射性物質」と書いたプレートが掲げられている。

 「でも線量は低いですよ」。カミラ・モントーヤ広報専門官(45)が語る。手渡されたパンフレットによると、1時間当たり1・5ミリレム(15マイクロシーベルト)。それでもこの地域で自然界にある放射線の最大10倍になる。

 地面に緑のガラス状の小石が散乱していた。磨けばアクセサリーにできそうだ。「これがトリニタイト。核爆発時に砂が溶けたもの」。手でつまみ上げ、説明してくれた。一瞬、触れるのをためらった。

 記念碑と周辺はミサイル射場の中にありながら、原爆開発計画の歴史を伝える国定史跡になっている。現在、1年で4月に1日だけ一般公開している。「数千人が来てくれるんですよ。喜ばれています」。モントーヤ専門官は誇らしげに笑ってみせた。

75人分の名前

 一方、昨年の公開日に入門口で抗議行動をしたトゥラローサ村のローズマリー・コルドバさん(69)は「見学者から次々と口汚い言葉を浴びせられた。私たちの苦しみに、関心すら持ってもらえない」と憤る。

 脳腫瘍と闘う長男ダノイスさん(52)を看護する毎日。土地の汚染と内部被曝(ひばく)が、子や孫の代にも悪影響を及ぼしていると考えている。75人分の名前を手書きした紙を手渡された。「私の知り合いだけで、これだけ大勢ががんになった」

数時間後に灰

 ヘンリー・ヘレラさん(80)は核実験の日の早朝をこう証言してくれた。「光に続いてごう音に驚き、振り向くと山の向こうにきのこ雲が立ち上っていた。北東に流された後、風向きが変わった。数時間後に灰が降り始めた」。当時11歳。早起きし、父が仕事で使う車の整備を手伝っていた。

 外に干した洗濯物は汚れ、母は怒りながら洗い直した。後になって、他の町でも「夏に『雪』が積もった」と聞いた。もっと爆心地に近い地域では、光が当たった部分だけ牧場の牛の毛が変色したという。

 16年前に唾液腺のがんが見つかった。だが米政府は、トゥラローサ方面に放射性降下物が達したとは認めてくれない。

 「何も知らされずに突然原爆を使われた。私たちも被爆者」と当時3歳だった妻グロリアさん(72)は言う。そしてこう強調した。「政府に謝罪してほしい。私たちは棄民にされたのだから。原爆はトリニティ・サイト、広島と長崎でたくさんの人を苦しめた」

 米国内では今、核兵器開発に絡んだ施設などを国立歴史公園化する流れがある。トリニティ・サイトについてもその指定を求める声がある。しかし周辺地域の住民や出身者でつくる団体は「もし指定するなら、(核実験被害者である)私たちや広島・長崎の苦しみを知ってもらう展示もするべきだ。科学に関する一方的な展示は許されない」と主張している。

(2015年1月5日朝刊掲載)