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連載 被爆70年

[伝えるヒロシマ 被爆70年] 昭和天皇が原爆写真集閲覧 1945年9月 派遣の侍従報告 宮内庁に現存 判明

 1945年8月6日に壊滅した広島を記録した原爆写真集を翌9月、昭和天皇が閲覧していた。陸軍船舶司令部が作成した「昭和二十年八月六日広島市戦災記録写真帖(ちょう)」で45点を収める。広島県などの「言上書」の現存も分かった。宮内庁書陵部宮内公文書館が保存し、「写真帖」の閲覧は「昭和天皇実録」が記載している。「被爆の実態を早くから確かめていた重要な史実だ」。広島市の「被爆70年史」編集に当たる研究者らが検証を始めた。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 昨年に公表された「昭和天皇実録」45年9月1日に、「戦禍による被害甚大につき」広島へ永積寅彦侍従を派遣した記載がある。

 「永積は三日に広島県庁(注・全焼で市郊外の東洋工業に入居)において聖旨を伝達し」、臨時病院となった本川国民学校(現中区の本川小)などを視察。そして「五日帰京、同日及び十四日に復命する。その際、永積は船舶司令部宇品よりの写真を御覧に供し、原子爆弾に関する東京帝国大学教授都築正男の説明につき言上」した。

 「写真帖」(縦30センチ、横38センチ、28ページ)は、宇品町(現南区)にあった船舶司令部写真班員らが撮った「中心部ノ被害状況」「火傷患者ノ状況」からなる。

 「中心部」は爆心地そばの紙屋町や相生橋、広島赤十字病院などの無残な光景29点を収める。大半が東京からの大本営調査団に付き添った8月9日の撮影。「火傷」16点は、兵士や市民が運ばれた沖合の陸軍似島検疫所などで7日から撮った痛ましい姿だ。

 原爆記録写真は、連合国軍総司令部(GHQ)の占領と検閲で封じられ、公開されるのは日本が主権を回復した52年から。

 昭和天皇への「写真帖」は最も早く編まれた原爆記録写真集でもあった。

 広島県の「言上書」は被害状況をまとめ、高野源進知事が「謹話」していた。45年9月1日現在、「死者ハ既ニ五万三千人余人ニ」と報告し、「平時人口三十二万」と永積侍従とみられる書き込みが随所にある。広島市は「児童中不幸両親ヲ失ヒタルモノ約五百名ニ」と「言上」していた。

 「実録」に記載された都築教授の説明は、宮内省で9月6日に行われ、放射線障害の症状などを聞き取った文書も残されていた。

 「写真帖」や一連の「言上書」などは、当時の宮内省が「侍従御差遣録」として残し、71年に「永久保存」と書陵部へ移管していた。2011年施行の公文書管理法に基づき、明治以降の「特定歴史公文書等」を所蔵する宮内公文書館が閲覧に応じている。

 「昭和天皇実録」公刊本43~45年分の「第九」は来年9月に出版される。

惨禍 早くから確認

一連の資料を調べている安藤福平・元広島県立文書館副館長の話
 原爆の惨禍を昭和天皇が早い時期から具体的に知っていたのは新たな史実だ。原爆関連資料が宮内庁にあること自体、専門家の間でも分かっていなかった。47年の「広島県幸啓録」の資料もあり、昭和天皇がヒロシマをどう捉えていたのかを掘り下げる必要がある。

(2015年6月28日朝刊掲載)