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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 被爆学徒 <2> 島の先生 苦難の道 教え子支え

 元小学校教諭の松井(旧姓橋本)サホ子さん(85)は、自らの女学校時代をこう語る。「勉強するため島を出たのに工場通いじゃった」。呉市下蒲刈島で暮らす。父の勧めで広島市内に下宿し、広島県内の高等女学校の嚆矢(こうし)でもあった山中高女へ進んだ。

 学校は千田町(現中区)にあったが、2年生になると南観音町(現西区)の三菱重工業広島機械製作所への通年動員が始まる。翌45年4月、母校は広島女子高師付属(現広島大付属福山中高)となり、学徒動員のまま移籍して天満町(現西区)の三宅製針工場へ通った。

両親の配慮 鏡隠す

 毎朝5時に起床し、かまどでたいた麦飯に配給の大豆を弁当に詰めて出勤。「機関銃の弾になる」と聞いた鉄の棒のさびをとんかちでたたいて落とした。作業は午前7時半から午後5時まで。手のひらに血がにじんでも「勝利のため」とひたすら言い聞かせた。三宅製針では3年2組の級友約50人が汗を流した。

 1945年8月6日は、工場脇で防空壕(ごう)を掘っていた。爆心地から約1・2キロ。全身を熱線にさらされ、火炎の中を逃げた。収容された己斐国民学校(現西区の己斐小)で11日、救援に入った下蒲刈警防団と出会った。

 「顔見知りの人が私を見ても『橋本の娘は死んだから島で葬式をしたんでえ』と言い、信じようとしませんでした」。それほど顔かたちが変わっていた。

 両親は娘を気遣って家から鏡を隠し、顔が映りそうなものには紙を貼った。「激痛に両親を困らせたくない思いから、もう死んだ方がいいとも考えました」

 山中高女同窓会が編んだ「追悼記」(85年刊)によると、三宅製針に動員されていた3年2組は15人が犠牲となり、生徒全体では市役所近くの建物疎開作業に出た1、2年生をはじめ計404人が亡くなった。

 現呉市安浦町で授業を再開していた学校へ翌46年に何とか復学した。級友を助けられなかった「申し訳なさ」が拭えなかった。

 卒業した48年、古里の島で代用教員となった。体調が優れず腰掛けのつもりだったが、「ケロイドが残る私に児童が抱き付いてきた。必要とされるのがうれしかった」。正式に教諭となり島で35年間教えた。授かった娘2人も育てた。

 勉強を満足にできなかった苦い思いから「好きなことをいっぱい学んで」と呼び掛けたが、戦争と原爆は「つらさが勝って」語る気になれなかったという。

熱意に動かされて

 転機は教え子からの求め。島内の大地蔵小で受け持った西村隆子さん(63)=東広島市黒瀬町=が中学2年の長女を伴い、「先生の体験を聞かせてほしい」と95年に訪ねてきた。熱意に動かされ、級友の死や被爆後の苦悩を語った。被爆50年の山中高女慰霊祭へも西村さん親子と参った。

 多くの動員学徒が亡くなった中区国泰寺町に立つ慰霊碑に折り鶴をささげ、山中高女担任だった平賀(旧姓水木)栄枝さん(92)=福山市引野町=とも再会した。復学すると「生きていてよかったねえ」と励まされたことが胸によみがえった。それからは、「若い人が何か学ぶことになれば」と島の小中学校や幼稚園で10年余り証言に応じた。

 松井さん宅には今月、西村さん親子の姿があった。「先生からは苦難に負けない心も学びました」と西村さん。家庭を構えた長女の宅明理沙さん(34)=東広島市黒瀬町=は「犠牲になった学徒の親の悲しみをあらためて考えます」と話した。高齢の松井さんに代わり今年も山中高女の慰霊祭へ親子で参列するという。

 「平和な時代に生かされている感謝と、家族や友人を大切にする心を忘れんでね」。潮風が香る自宅そばの海岸で諭す先生の口調は優しさにあふれていた。

(2015年6月16日朝刊掲載)