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連載 被爆70年

[伝えるヒロシマ 被爆70年] 学徒日記 戦時下の挺身 旧山中高女の三上さん遺品 母から妹へ

45年6月から1ヵ月の日々 「必死で働いた」

 1945年8月6日の広島原爆で死去した女子学徒の日記が残る。国への挺身(ていしん)を求められた戦時下の日々をつづっている。広島女子高師付属山中高女(現広島大付属福山中高)1年生だった三上睦子さん=当時(14)=の遺品。娘の死をみとった母から妹が受け継ぐ。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 表紙に「セイカツ日記」と書き、45年6月18日から7月18日までの1カ月を1日ずつ記し、色鉛筆で絵を添えている。

 「東練兵かいたく作業である。他の学校に負けてはと思って、必死で働いた」(6月22日)「今日も東練兵場で」(同23日)。現JR広島駅北側に広がる東練兵場では、食糧増産の開墾作業に広島市内の各中等学校の下級生が動員されていた。政府はこの年4月から国民学校初等科(小学校)を除く学校の授業を原則停止していた。

白兵戦けいこも

 日中戦争の始まりとなった盧溝橋事件(37年)にちなむ「事変渙発(かんぱつ)記念日」には「此(こ)の長期戦には断じて、勝たなければならない」(7月7日)と誓い、また「武道白兵戦技のけいこをした。汗だくだくになるまで続けた」(同10日)と記す。少女たちの心身も戦争遂行のために染めた軍国教育の一端が浮かび上がる。

 動員の合間の登校では、「警報が出たので引き上げにした」(7月15日)と空襲警報への言及が増え、「日記を書いてゐる時いつでも警報が出る。しらずしらずの内に字もあらっぽくなって行く」(同18日)が最後の記述となった。

母の悲しみ刻む

 山中高女1年生は、爆心地から約1・2キロの広島市雑魚場町(現中区国泰寺町)の建物疎開作業に動員され115人の原爆死が確認されている。睦子さんは、救護所となった大竹国民学校(現大竹小)へ運ばれ、家族が連れ帰った現大竹市の自宅で翌8月7日夜に亡くなった。

 日記は、母滋子さんが保管し、2002年に95歳で逝った。次女睦子さんの遺品を受け継ぐ四女の森谷栄子さん(78)=広島市佐伯区五日市=は、「姉は(「必勝歌」の一節)『必ず勝たんこの戦(いくさ)』を口ずさみ、母の膝に伏せって息を引き取ったそうです。私たちにとっては母の悲しみも刻む日記です」と公開に応じた気持ちを語った。

(2015年6月16日朝刊掲載)