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連載 被爆70年

[伝えるヒロシマ 被爆70年] 8ミリに浮かぶ復興期の広島 初代資料館長撮影 デジタルに変換

 広島の復興期を記録した8ミリ映像が見つかった。建設途上の平和記念公園での平和記念式典や核実験に抗議する初の座り込みが写され、1958年の「広島復興大博覧会」はカラーでも収められる。原爆資料館初代館長を務めた長岡省吾氏(1901~73年)が撮影していた。修復を含め約140分がデジタル映像に変換され、遺族は資料館に提供と活用を託す。

 モノクロと一部カラーの8ミリフィルム44本が、長岡氏が大竹市玖波の自宅に残していた資料約1万1890点の中にあった。次男錬二さん(73)=広島市東区=らが見つけ、うち31本をデジタル化した。

 確認できた映像は、いずれも50年代半ばから後半にかけての撮影。広島市の「8月6日」の式典では、テレビ中継(59年開始)前の映像がある。56年は公園内にバラック民家が残るため原爆慰霊碑の後ろを市章の幔幕(まんまく)で囲み営んでいた様子や、57年は三笠宮ご夫妻の参列と献花を撮影していた。

 また、独身時代の常陸宮さまが訪れられた57年4月の映像には、被爆者らが英国の水爆実験中止を訴えて原爆慰霊碑前で前月から続けていた初の座り込みも記録されていた。同年10月のネール・インド首相の資料館見学も写されている。

 広島復興大博覧会(58年4月1日~5月20日)のカラー映像は、第一会場となった公園に詰め掛けた市民の熱気や、資料館が「原子力の平和利用」も紹介する「原子力科学館」に充てられた様子を残す。市が要請し、米国政府から貸与されたマジック・ハンドの展示も撮っていた。

 映像は、55年に開館した資料館や市公会堂(現国際会議場)が立つ公園と周辺の光景や、植樹が始まろうとしていた平和大通りなど「平和記念都市」広島の建設ぶりも収めている。

 錬二さんは「父は8ミリを愛好し、本人が資料館で説明に当たる部分は職員らに撮ってもらったのだろう」と言い、家族の暮らしを除く映像の公開に応じる。同意を得て、約10分に編集したデジタル映像をホームページ「中国新聞アルファ」で掲載している。(「伝えるヒロシマ」取材班)

埋もれた記録

 「被爆70年史」の編さんを進める広島市公文書館の中川利国館長の話 広島の復興期を伝える貴重な映像だ。平和記念公園が形式的ではない祈りの場であり、写生大会など自由に使える親しみの空間であったのも分かる。復興博をカラーで見ると、思っていた以上に華やかだった。市民の手になる8ミリ映像は埋もれた記録ともいえる。館としても収集を図りたい。

(2015年5月18日朝刊掲載)