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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 <16> 在韓被爆者 歴史の責任を問う

 歴代政府は「唯一の被爆国」と唱えてきた。だが、植民地支配した朝鮮半島からの移住や徴用・徴兵を余儀なくされた末に原爆に遭った人々を見過ごしていないだろうか。被爆者援護も長年放置していた。韓国には海外最多の2561人が健在であり、大半が広島被爆だ。1945年8月6日を体験した在韓被爆者の苦難の歩みや現存する資料は、原爆の「非人道性」を訴える日本の歴史の責任と清算も問うている。(「伝えるヒロシマ」取材班)

■韓日の証言者

不当と闘い 援護に道筋

 韓国原爆被害者協会を創設し、今は名誉会長に就く。京畿道城南市に住む郭貴勲(カク・キフン)さん(90)は、原爆の悲惨を見詰めるからこそ日本の不当と闘わざるを得なかった。

 「被爆者はどこにいても被爆者」と訴え2002年、日本政府の上告断念を勝ち取った。来日すれば健康管理手当を支給し、出国すると打ち切る。旧厚生省が74年に出した恣意(しい)的な402号通達の廃止を引き出し、米国やブラジルなどに住む日系人被爆者の援護も切り開いた。

 半生を賭した闘いは広島へ送られたことから始まる。官立全州師範学校5年生だった44年、朝鮮人に敷かれた徴兵制で召集された。被爆の証しでもある「軍隊手帳」は、韓国史を展示する独立記念館(忠清南道天安市)に収めていた。

 「昭和十九年九月十日西部第二部隊要員現役兵トシテ…」。大日本帝国が強いた「姓名松山忠弘」の手帳には軍歴が丁寧に記されていた。

 「皇国臣民化教育のうえに命まで求められる。なるようになれの絶望でしかなかった」。自らの軍歴記録に向かうと険しい表情を浮かべた。6人きょうだいの長男。家族の期待を背負い進学し、日本語も流ちょうだった。入隊すると幹部候補生に抜てきされた。

 45年8月6日は、工兵第五大隊(現中区白島北町)の広場にいた。爆心地から約2キロ。気が付くと背中が燃えていた。親しかった日本人候補生の死をみとった。「断末魔の世界でも生き残るぞ」とも思った。

 大野村(現廿日市市)の国民学校に設けられた陸軍病院分院へ送られ、15日の「玉音放送」を聞いた。

 「万歳」。押し殺した思いが湧き出て涙があふれた。「悪性貧血ニ罹(かか)リタル」原爆罹災(りさい)証明書も携えて9月祖国に戻った。

 解放後は、奪われた言葉を学び直して教壇に立つ。そして被爆体験を朝鮮戦争休戦後の59年、新聞に投稿し、韓国で初めての証言となった。外務部には「補償交渉を」と働き掛けた。

 だが、原爆被害者の救済は国交回復をみた65年の韓日協定で自国政府からも取り上げられなかった。

 67年に広島を再訪して原爆医療法(57年制定、現被爆者援護法)があることを知り、協会の創設に参画。「貧困のどん底と仲間同士のけんかにも追いやられていた」在韓被爆者の救援に身を削るようになる。

 元三菱重工業徴用工の補償を求めて74年に渡日した際、被爆者健康手帳を広島市に申請したが却下。法的に被爆者と認める手帳を交付されたのは79年だった。しかし、402号通達により日本に住む被爆者と同等の援護は阻まれ続けた。

 日本を相手に02年勝訴した際に「痛快の至りだ」と述べた。だが今も、こうした思いが拭い切れない。「植民地支配と戦争責任を追及されると、『人道上から応じる』と言うが謝罪はしない。なぜ、日本は自らの過去を率直に認めないのか」。不当は続くからでもある。同じ被爆者でありながら在外への医療費助成は上限が設けられる。

 郭さんは「私は韓国人被爆者だ」と題した283ページの手記を一昨年に刊行した。日韓の政治に翻弄(ほんろう)されながら闘い抜いた半生にとどまらず日本市民の支援にも言葉を尽くす。

 「内実を理解し合うことが和解へつながり、言をまたない原爆の非人道性を受け入れることになる」と被爆70年の今夏、日本語でも手記を著そうとしている。韓日の市民が連携して勝ち取った裁判の意義も知ってほしいと願うからだ。

■異境での証し

入手の書類 弟の生と死

 河渭年(ハウィニョン)さん(86)は広島で学徒動員され被爆した。「日本語は忘れましたよ」。開口一番に言いながら脳裏に刻まれた言葉で受け答えに応じた。アジアの拠点(ハブ)港を見下ろす釜山市沙下区のマンションに次男夫婦と暮らす。

 「日本での名前は河村茂子、弟は正雄といいました」。異境で被爆に至る日々からを語り始めた。

 郷里は慶尚南道陝川(ハプチョン)郡だった。戦前の広島の朝鮮人社会では、「名前は問うても故郷は問わぬ」といわれたほど陝川出身者が多数を占めた。1910年の韓国併合で山間部陝川の男たちは太田川改修工事などに働きに出る。やがて妻子を呼び寄せ、広島への定住者がみるみる増えていった。

 河さんの父は郡庁に勤めていたという。叔父2人が先に渡った広島で運輸業を起こし、母や三つ違いの弟、祖父母と続いた。住まいは東洋工業(現マツダ)近くの府中町鹿籠にあり、1学年下げて府中小4年に編入し、日本語を覚えた。

 日米開戦の翌42年に開校した海田高女に進学。「海田高校三十周年記念誌」によると、1期生100人は学徒動員令で44年10月から東洋工業で銃器の製造に当たる。河さんは、父の仕事のため家族で転居した岩国市から列車で通い、旋盤やボール盤に連日向かった。

 「油だらけになって仕事をしました」。河村茂子として生きざるを得なかった日帝時代をそう表した。

 原爆は、作業服に着替え機械のスイッチを入れた瞬間だった。真っ暗となり、「待避!」の声と同級生らのげたの足音でわれに返った。午後5時ごろ、動員の大学生に引率されて広島駅を目指し、叔父夫婦がいた尾長町(現東区)へ何とかたどり着く。岩国から父母がトラックで迎えに来たが、弟は現れなかった。

 「これが弟の証明書です」。手紙を書いて送り94年に入手した書類を取り出した。広島工業高校長名でこうあった。「県立工業学校(旧校名)電気科第一学年河村正雄 上記の者は1945年8月6日学徒報国隊として動員され広島市中島新町において…」

 弟の昶斗(チャンドゥ)さんは、現中区の平和記念公園南側一帯での建物疎開作業中に死去していた。河さんと父は7日、作業現場跡で内臓が裂けていた弟を見つけたという。

 「お父さん、お母さんは泣いてばかり。国が解放されると秋に闇船で山口県から帰りました」。河さんは翌年、小学校教師の夫と結婚。3男2女を授かった。50年に起こった朝鮮戦争で陝川は激戦地となり、広島で死んだ弟の戸籍は焼失したまま。解放50年を控えた94年、日本名と学校名を手掛かりに弟の生と死を求めたのは、自らの被爆を証明したい思いもあった。

 被爆者健康手帳を広島県から交付されたのは、厚生労働省が「郭貴勲裁判」の敗訴で健康管理手当の海外送金を始めた翌2003年9月。58年ぶりに広島を訪れ1期生とも再会した。

 「同級生が証人になってくれました」と顔をほころばせ、「もう一度会いたいが足が衰えて」と申し訳なさそうな表情も浮かべた。

 日本での被爆体験は、「大変な死体を見たことなど主人や友達には話したことがあります」という。反応を尋ねると、「ふふ」と漏らして少し考え込んだ。「同情する人もおりますね」とだけ答えた。

 原爆投下は日本が起こした戦争の帰結であり、われわれとは無縁なことだ。そうした歴史認識が根深い韓国社会では、河さんも深い溝に立たざるを得ないのだ。

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被爆者数の全容 今も不明

 被爆した韓国・朝鮮人はどれだけいるのか。諸説あるが全容は今も不明だ。

 広島・長崎両市が79年に刊行した「広島・長崎の原爆災害」では、広島で2万5千~2万8千人、長崎で1万1500~1万2千人が被爆したと推計する。

 韓国保健社会部が90年に初めて行った被爆者調査では、健在は2307人を数え91%が広島被爆だった。日本の402号通達が廃止された03年を機に、被爆者健康手帳の申請者が相次いだ。

 大韓赤十字社の3月末現在のまとめでは、2471人が手帳を所持し、同社が「原爆被害者」と認めながら90人が証人を見つけられず未取得だという。

 北朝鮮では02年時点で928人がいるとされたが、日本との国交がないため被爆者援護法の適用から除外されている。

(2015年5月11日朝刊掲載)