×

連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 紙碑 <12> 「私の8月6日」 2012年刊 自らの半生刻み逝く

 「死期を悟(さと)り姉が書き残したものです」と添え、1冊の手記が「伝えるヒロシマ」に届いた。

渡米治療した1人

 和田雅子さんの「私の8月6日―新しい出発」という。かつて「原爆乙女」と、米国では「ヒロシマ・ガールズ」とも呼ばれ1955年の渡米治療に臨んだ25人の1人。日米の市民が協力して実現したこの事業が2年後の原爆医療法制定、つまり国の被爆者援護を喚起して促した。

 帰国後は社会福祉の道を選び貫いた和田さんは、メディアの前に立つことはほとんどなかった。送り主で弟の敏行さん(71)=広島市中区加古町=を訪ねると、姉の部屋に招き、約300部作ったという私家版手記の公表に応じた。刊行の翌2013年6月29日、81歳で死去していた。

 45年8月6日、広島女子商2年生だった和田さんは、鶴見町(現中区)での建物疎開作業中に被爆した。爆心地から約1・5キロ。学徒動員された同級生と1年生の計274人が亡くなった(「広島女子商学園60年史」)。

 「私の体は乗せるのに持つところもないほど焼けただれ」と、リヤカーで迎えに来た父から後に聞いた状態を記す。無残な傷が肌に残った。

 22歳となる年、同じ苦しみを抱える女性たちと大阪大病院で手術を受けた。敏行さんが幼いころの姉は「家族にも心を閉ざしていた」。大きく変わったのは「やはり米国に行ってからです」といい、部屋に掲げる遺影をみやった。

 渡米治療は、広島流川教会の谷本清牧師(86年死去)と原爆孤児を支援する「精神養子運動」も手掛けたノーマン・カズンズ氏(90年死去)が提唱した。原爆を落とした国での治療には、地元でも冷ややかな声があった。

 形成手術はニューヨークを代表するマウント・サイナイ病院が応じ、「非戦」を誓うクエーカー教徒らの家庭が暮らしの世話を引き受けた。

 和田さんの手術は6回を数え、滞米生活は13カ月に及ぶ。言葉は通じなくても、各家庭で「被爆者としてではなく一人の人間として受け入れられ」た。「顔の傷は残ったけれど、心のヤケドを治すことができました」とも振り返っている。

教え胸に福祉の道  「あなたがしてもらってうれしかったことをしてあげなさい」。その言葉を胸に再出発する。帰国すると母校定時制に編入して高校卒業資格を取得。27歳で明治学院大へ進み卒業した。63年、西中国キリスト教社会事業団の社会館(現西区)に勤め、事業団が71年、開設した特別養護老人ホーム「清鈴園」(現廿日市市)で主任相談員を務める。

 原爆で家族を失った人や高齢の被爆者らとも接する日々。8月6日が近づくと戦争・被爆体験を聞く園の「平和集会」も担った。亡き級友への思いもはせながら、こう書き残していた。

 「誰にも看取(みと)られることなく死んでいった『戦争の死』。それは余りにもみじめで悲しい終末です。やはりどんなことがあろうとも、『平和の死』で心安らかに自分の人生を締めくくれる時代を守らなければならない。心からそう思います」

 和田さんは80歳の年、がんの転移が分かる。「延命治療はしてくれるな」と敏行さんに繰り返したという。闘病の間に半生をまとめていた。「私の8月6日」は「永遠に平和を発信し続けてほしい」と、おいやめい、その子どもらに託して終わる。喪主を務めた敏行さんが手記公表に応じたのは姉の願いを少しでも伝えたいと考えたからだ。

 原爆は人間にあってはならない、言い尽くせない体験だからこそ書き続けられてきた。あまたの「原爆手記」は読まれることを待っている。(おわり)

 この連載は「伝えるヒロシマ」取材班が担当しました。

(2015年4月21日朝刊掲載)