×

連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 <15> 「声なき声」の証言者 無残な別れ 未来に語る

 1945年8月6日、広島の上空でさく裂した原爆で13万~15万人の老若男女が年末までに亡くなった。生き残った人たちは、多くが親、きょうだい、子どもを奪われた被爆遺族でもあった。今夏に開館60年となる広島市の原爆資料館に遺族から託されてきた資料をあらためて見つめる。無残な別れを強いられた遺品は、死者が生きていた証しであり家族の尽きせぬ思いを刻む。「声なき声」の証言者は、核兵器が使われたらどうなるのかを語り掛けている。(「伝えるヒロシマ」取材班)

■形見の硬貨

磨いては、家族思う

 1銭が2枚、10銭と50銭それに寛永通宝が1枚ずつ。西村園子さん(85)=東広島市黒瀬町=は「両親の形見はこれしかないんです」と、くすんだ5枚の硬貨を手に取り自宅跡を訪ねた。広島市中区の江波線舟入本町電停そば。「悔しいよね」。明るい口調だったが目頭はぬれていた。

 父日丸伊智二さん=当時(56)=と母敏子さん=同(55)=は、舟入本町にあった日本発送電中国支店(現中国電力)技能者養成所の寮に住み込みで働いていた。10代の寮生約90人の食事を賄っていた。6人きょうだいの末っ子、15歳の園子さんだけは親元で暮らし、宇品町(現南区)の野戦船舶本廠(しょう)に勤めていた。

 「あの日」朝、母は「人さまにかわいがってもらえる人になるんよ」と出勤する園子さんに声を掛け、ズックの靴ひもを結ぶのを手伝ってくれたという。それが親子の別れとなった。

 爆心地から約1・6キロとなった木造2階の寮は倒壊し全焼。園子さんは本廠で被爆し、沖合の金輪島に避難。運ばれてくる負傷者に交じり眠れぬ夜を過ごした。翌日、上官に付き添われ宇品港から舟で江波町に上がり、両親を捜したが安否は分からずじまい。呉海軍工廠勤務の長兄郁郎さん=同(35)=らが9日迎えに来て再び寮跡に向かった。

 「助かり戻って来た寮生から頭を下げられて…」

 伊智二さんは玄関口で下敷きとなり助けを求めたが、火炎が迫り引っ張り出せなかったと打ち明けられた。その場所を掘り真っ白な骨を拾った。敏子さんは遺体で横たわっていた。

 5枚の硬貨は、脚が不自由だった父が寮そばに掘っていた防空壕(ごう)の辺りにあった。幕末まで造られていた寛永通宝は、父が自分の母の形見として大切にしていた。

 戦後は親戚を頼り三次市の繊維工場で働いた。寮では、長兄が作ってくれた裁縫箱に入れていた硬貨を取り出しては磨いた。「両親のお守り」だと思った。22歳で結婚。新居の仏壇に収め、毎年8月6日は硬貨を手に亡き両親をしのんだ。

 5枚の硬貨を資料館に寄贈したのは、夫を見送った2009年。次男夫婦の隣で暮らす自身も老いを感じた。きょうだいで健在なのはただ一人となっていた。

 「この硬貨を手にすると骨を拾った時の気持ちや光景がよみがえります。家族を奪い、わずかな形見しか残さなかった原爆のことを後世の人にも少しでも知ってもらえれば」。両親と寮生ら計26人が原爆死した。知る人が少なくなった事実も伝えたい。硬貨に託した願いはあせてはいなかった。

■米国へ渡る水筒

繰り返さぬ 込めた祈り

 焼け焦げがこびりついた学徒の水筒が、「核超大国」米国へ渡り展示される。

 広島二中(現観音高)1年4学級の折免滋さん=当時(13)=が布かばんに弁当箱と入れ、変わり果てた姿とともに母が見つけた。広島・長崎両市が27日からニューヨークで、6月からは首都ワシントンで開く原爆展で紹介される。

 「8月6日」、二中1年生は、平和記念公園そばを流れる本川左岸に集合し、建物疎開作業に取り掛かろうとしていた。米軍が投下した原爆のさく裂直下から約500メートル。321人が犠牲となった。

 母シゲコさん(96年に88歳で死去)は八幡村(現佐伯区)から捜しに入った。夫は召集されていた。9日、作業現場跡近くでうつぶせの白骨と、滋さんの三つ違いの兄正昭さんの名前を刻んだお下がりのアルミ弁当箱や、水筒を入れたかばんを見つけた。

 「母は『持たせた弁当も食べられず、ふびんだ』と遺品を見ては泣いていた」と弟の昭雄さん(79)=佐伯区五日市町昭和台=は思い起こす。当時は国民学校4年生で、八幡村に逃れてきたけが人の救護を手伝ったという。「兄の死、負傷者の無残な姿、その全てが医師としての原動力になりました」

 内科医となった昭雄さんは、67年から広島原爆被爆者健康管理所(現中区の原対協健康管理・増進センター)の業務に携わり、広島県などが91年に結成した放射線被曝(ひばく)者医療国際協力推進協議会(HICARE)幹事も担った。

 原爆が家族にもたらす悲しみ、人間の体をむしばむ放射線被害の恐ろしさ。「それらを米国の人たちの心に届けるためなら、母も喜んで遺品を送り出したでしょう」。滋さんの水筒や弁当箱は62年に母が寄贈した。悲劇が繰り返されない未来こそが亡き母の願いでもあると信じている。

■女子生徒のげた

遺骨代わり 毎朝拭いた

 薄れてはいるが歳月にあらがうように、焼け残った足跡と文字が残る。「美代子最期の○○左足と推定す」(○○は判読不能)

 広島市立第一高女(現舟入高)1年2組の大杉美代子さん=当時(13)=が「8月6日」、皆実町(現南区)の自宅から履いて出たげたと、母冨子さん(71年に67歳で死去)が墨で書き記した文字である。

 現在の平和記念公園南側一帯、旧木挽町から元安川右岸にかけての建物疎開作業に動員された市女1、2年生は全滅した。犠牲者は541人を数える。

 美代子さんは、冨子さんと広島鉄道局勤務の兄照明さん(2011年に84歳で死去)が捜したが行方は分からなかった。それでも母は歩き2カ月後、作業現場近くで焼けた瓦の下からげた片方を見つけた。冨子さんの着物で作った鼻緒が確認の決め手となった。

 「母はげたを遺骨も見つからなかった美代ちゃんだと大切にしていました」。照明さんの妻信子さん(80)=西区庚午中=は、60年に結婚して一緒に暮らした冨子さんの日々をたどった。毎朝げたを丁寧に拭き、読経を欠かさなかった。美代子さんの思い出を信子さんに語り、早すぎる死を嘆いた。

 げたを資料館に寄贈したのは63年。「寂しくなる」とためらった冨子さんを照明さんが説得した。「みんなに家族の悲しみを知ってもらおうと言いました」

 「自分と代わっていれば/幼い妹、妹、妹、妹よ」。市女追悼記「流燈」第4編(96年刊)にそう寄せた照明さんの思いは今、萩市に住む長男(52)も受け継ぐ。信子さんは孫2人も伴い夏は、美代子さんも眠る墓と元安川右岸に立つ市女慰霊碑に手を合わせる。

 「げたを見て戦争の理不尽さに思いをはせていただければ、母も夫も浮かばれます」。家族の思いを込めたげたは、年間約138万人が訪れる資料館で展示されている。

■母手製のワンピース

優しかった 思い出託す

 母が物資不足の中で入手した銘仙で縫ってくれたワンピースだという。高瀬二葉さん(87)=東京都世田谷区=はそれを着て母と一緒に逃げ、死をみとった。

 二葉さんは「8月6日」、母三戸節子さん=当時(38)と妹=同(15)=と大手町の親戚宅にいた。運輸通信省勤めの父が病死し、東京から両親の郷里である広島へ7月26日疎開してきた。

 爆心地から約1・2キロ。母子3人は家屋の下敷きになった。「母は自分の脚に刺さった木を引き抜き、私の体にのしかかるかもいを取ってくれました」。しかし、母のけがはひどく、妹と両側から抱きかかえて金輪島へ避難。島から軍用船で玖波国民学校(現大竹市)へ収容された。

 母は意識がもうろうとなり、9月1日息を引き取る。「『坊やに会いたい。もう間に合わない』がいまわの言葉でした」。長男章元さん=同(11)=は、一足先に広島高師付属小へ転入し、県北に学童疎開していた。母の元に着いたのは同3日だった。二葉さんは着の身着のまま顔の腫れや下痢に苦しみ、10月末に岡山市の叔母宅へ向かった。

 被爆から5年後に結婚。日本銀行職員の夫と全国を12回転勤してもワンピースは一緒だった。子ども2人と孫4人に見せ、都内の中学校などで証言した際も持参した。

 それを知った東京都原爆被害者団体協議会から資料館へ寄贈を勧められる。手放すのは迷ったが、隣り合って暮らす長女西原裕子さん(60)から背中を押された。06年、千葉県に住む弟章元さんと広島を再訪した。

 二葉さんは11~12年に卵巣がんと胃がんが見つかり証言活動は退く。自宅を訪ねると穏やかな表情でこう語った。「裁縫好きで子どものことを最期まで案じた母と私の代わりに原爆のむごさを伝えてほしい」。ワンピースには未来への伝言も託していた。

(2015年4月14日朝刊掲載)