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連載 被爆70年

[伝えるヒロシマ 被爆70年] 娘のノート つづった慟哭 市女大杉さん 遺品に母記録 継承 兄が遺言

言葉づかひ叱った こらえてね

 1945年8月6日に投下された広島原爆で、遺骨さえ見つからなかった女子生徒の授業ノートに母が書き続けた手記があった。市立高女(現舟入高)1年生だった大杉美代子さん=当時(13)=の遺品であり、母冨子さん(71年に67歳で死去)の慟哭(どうこく)の記録。美代子さんの行方を一緒に捜した兄が家族に受け継ぐことを遺言していた。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 現中区の平和記念公園南側一帯の建物疎開作業に動員された市女1、2年生は541人が犠牲となった。

 「美代ちやん!美代ちやん、なぜ死にましたか?/今一度(で)いいからしっかりと此(こ)の手で抱いて見たい」。かなわぬ願いをつづる母の手記は、学校が作業現場跡で営んだ一周忌の法要に参列した翌46年8月7日から始まる。

 病欠などで原爆死を免れた同級生らに娘の姿を重ねて、「お友達と話し合っているのがどれ丈(だけ)たのしみだった事かと思(わ)れ涙が出て仕方ありませんでした」とも記す。

 三回忌後の47年8月30日では、「死ぬる四五日前、言葉づかひが悪いとひどく叱(しか)った/僅(わず)か十四年の短き命なのに/美代ちやん、こらえてね」と自らを責めていた。次女が使い切ることがなかった「地理」ノートに断続的に記していた。

 手記は、長男照明さん(2011年に84歳で死去)の妻信子さん(80)が広島市西区の自宅で受け継ぐ。夫から「平和のため捨ててはいけない」と託されていた。卒業した皆実国民学校(現南区の皆実小)の日記帳や市女時代の習字も残している。

 「最期まで美代ちゃんのことを言っていた」義母と夫の思いを酌み、信子さんは2人の死去後も原爆の日はノートなどを必ず仏間に出して祈っているという。

 冨子さんはこうも記していた。「あの恐ろしい空襲/何にも知らぬ佛(ほとけ)様の様(よう)な心を持った童心になぜあんな恐ろしい事をしたのでせう」。10代半ばの少女たちの命も奪った原爆の惨禍を伝えるノートと手記。信子さんは「大切に引き継ぐよう子どもにも話したい」とページを繰った。

(2015年4月14日朝刊掲載)