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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 被爆学徒 <8> 紅の血 「戦争は絶対にいけん」

 学徒勤労動員の写真を、石川(旧姓石田)芳枝さん(86)=広島市中区吉島新町=は所蔵する。裏には「検閲済 (昭和)19・7・17 陸軍運輸部」との検印が押されている。政府が指定した「軍需会社」で挺身(ていしん)する学徒を収めた貴重な記録写真だ。

はちまき姿 旋盤に

 はちまきを締めて旋盤に向かう広島女子商4年生だった自身や、同級生との休憩時の語らいなどの5枚。銃器を製造していた広島県府中町の東洋工業(現マツダ)で撮られた。「誰になぜ写されたんか、よう分かりません」と言いながら、みんなで唱和したという歌を正確に口ずさんだ。

 「花もつぼみの若桜 五尺の生命(いのち)ひっさげて 国の大事に殉ずるは 我ら学徒の面目ぞ あゝ紅の血は燃ゆる」

 政府が「学徒動員の歌」と選定した「あゝ紅の血は燃ゆる」という。向洋駅に集合し隊列を組んでの出勤時に必ず歌った。母校の女子商は南段原町(現南区段原南)にあった。4年生のうち約100人が東洋工業へ通年動員されていた。

 芳枝さんは1945年春からは専攻科生として動員が引き続く。塩屋町(現中区大手町)の生家はそのころ建物疎開となり、隣り合う大手町に母と姉とで転居した。広島貯金支局勤めの父は召集されていた。

 8月6日の瞬間は、経理事務に就く東洋工業本館にいた。爆心地から約5・3キロ離れていたが窓ガラスは吹き飛んだ。混乱に陥るなか同級生3、4人と近くの青崎国民学校へ向かった。学徒として救護に努めなくてはと思った。

 「下級生もようけ逃げてきた。皮膚が垂れ下がり『水を…』という。死ぬなら飲ませてあげたかった」。女子商1、2年生は鶴見橋西詰め(現中区)一帯の建物疎開作業中に被爆し、確認されているだけで274人が犠牲となった。

 学徒時代の記憶をたどるうちにあふれ出した言葉は「あの日」を境に沈んでいった。翌日から焦土の街を歩いた。「お母ちゃん」と泣きながら野宿もした。

 母ナツヨさん=当時(49)=は見つけられなかった。住吉橋(現中区)近くで被爆し、本川に飛び込んだという姉とは再会できた。終戦の「玉音放送」が流れた8月15日は、父の郷里である現北広島町で迎えた。

防火槽跡 小さな骨

 「不思議なことがあったんよ」。芳枝さんは再び勢い込むように話した。

 翌46年8月6日。バラック建てもまだらな大手町の転居跡を訪ねて母の冥福を祈った。防火水槽跡をのぞくと小さな骨があった。「何かの引き合わせ」と思って納骨したと明かした。

 「お姉ちゃん、そうだったん」。取材に付き添った石田美祢子さん(67)=中区舟入南=は、異母姉の原爆体験を初めて聞いたという。足が衰えた1人暮らしの芳枝さんを常日ごろから訪ねる。亡き母節子さんも原爆で肉親を奪われ、芳枝さんの父でもある喜六さんと結婚して生まれた。

 芳枝さんの夫曻(のぼる)さん(2012年に87歳で死去)も大手町の出身。復員すると両親きょうだいが死んでいた。結婚後も原爆のことは互いに触れず歩んできた。芳枝さんは子育ての間も経理の仕事を続け、70歳まで働いた。

 「私らは『撃ちてし止(や)まん』と仕込まれ、原爆で情けのうなっても我慢したが、戦争だけは絶対したらいけん。安保何とか(安全保障関連法案)と言われとるが、あがいな時代にしちゃあいけん」

 国の学徒勤労令により少年少女も「挺身国家緊要の職務」にかり出された。動員された学徒は約7200人が原爆死した。生き残っても苦難を強いられた。

 学徒が「紅の血」を歌い自らを奮い立たせていたころの写真は、芳枝さんが同級生から見せてと頼まれ、「あの日」たまたま雑のうに入れ携えたものだった。(おわり)

(2015年8月3日朝刊掲載)