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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 紙碑 <10> 「若潮三期の絆」 1995年刊 特攻の10代 救護被爆

 かつて陸軍船舶練習部第十教育隊と呼ばれる10代からなる部隊が、瀬戸内海に浮かぶ江田島最北端の幸ノ浦にあった。「防諜(ぼうちょう)上の呼称であり、実は陸軍水上特別攻撃隊で」(「広島原爆戦災誌」)あった。船舶特別幹部候補生として全国から募られ、本土決戦に備えた特攻訓練を日夜積んでいた。

いち早く出動命令

 1945年8月6日の原爆投下で、広島の防衛、行政機能が壊滅状態に陥った中、第十教育隊には救援・救護の出動命令がいち早く下される。「多数の舟艇を保有するうえ、部隊の編成も訓練された兵隊も、救援隊として最も適任」(同)とみなされた。大型の舟ではデルタの河川に進入できず、トラックは倒壊した家屋で道を阻まれた。

 和田功さん(88)=広島市中区東千田町=は午後3時ごろ、30~40人で宇品港(現広島港)に入った。自ら編集し発行人となった「若潮三期の絆」で振り返っている。戦後50年に当たる95年に刊行した船舶特幹3期生(45年2月入隊)の記録集。

 「一歩市内へ足を踏み入れた瞬間、唖然(あぜん)となり身の毛が総立ちになる思いがした/これが本当の戦争なのだ/ただ残酷、むごいの一言である」

 部隊の救援本部は、広島電鉄本社(現中区)に置かれた。和田さんたちは負傷者を背負い、むしろに棒を通した急ごしらえの担架で運んだ。水を求められると冥福を祈りつつ与えたという。

 夜は近くの広島工専校庭(現中区の県立図書館一帯)で野営。翌7日は京橋川に架かる比治山橋周辺で、8日は元安川そばの原爆ドーム下で遺体を収容する。水に漬かった皮膚はふやけ、強く引っ張ると皮がツルリと剝けた。火葬は焼け残りの立ち木を集めて船舶用の重油を掛け、埋葬は木や石で墓標とした。

 10日からは爆心地一帯の大手町を歩き、建物などの下敷きとなった人々の収容と火葬に当たる。性別が全く判別できなかったり、体の一部が焼け残ったりと「想像を絶する」世界が目の前にあった。

むなしさと喜びと

 和田さんは12日ごろ幸ノ浦に帰隊。15日の玉音放送と上官の命令で今度は、爆雷を載せる四式肉迫攻撃艇を焼いた。ベニヤ板製だった。「国のために死ぬはずが家族の元に帰ることができる」むなしさと喜びが交錯したという。

 広島鉄道局(現JR西日本)に復職したが、理容師に転じた。「身一つで人生を開ける」と見習いを経て53年、現住所に店を構え、妻とひたすら働いた。

 67年、沖縄などでの水上特攻をはじめ1636人の犠牲者をみた「海上挺進戦隊戦没者慰霊碑」が幸ノ浦海岸に建立される。協力したのを機に同期の消息を追った。

 3期生約2160人のうち推計1260人が被爆。市内の船舶通信隊に転属していた7人が戦死していた。放射能の恐ろしさを知らないまま広島に入り復員後に「原因不明の病」で亡くなった同期が、分かっただけでも10人いた。

 「若潮三期の絆」は4年がかりで編さんし、計141編の手記を収録。51編が自身の被爆や、救援活動で目のあたりにした光景と赤裸々な心情を表す。「国に命を賭した若者が何を見て、感じたのか。戦時下の青春を、戦争のむなしさをも伝える記録です」

 今、政府、与党は戦後日本のあり方を大きく変える安全保障法制の成立を目指す。国民も多くが身をもって戦争を知らない時代。和田さんは「自分たちの力で国を守るのは大切。だからこそ戦争をせんようにするのが必要です」と言い切った。壮健な同期は少なくなったが9月広島に集まり、幸ノ浦を訪ねる。

(2015年4月6日朝刊掲載)