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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 紙碑 <9> ろう者 「聞いてほしい」 「生きて愛して」 1989年刊

 元理容師の黒川(旧姓西田)トモエさん(81)=広島市中区江波南=は、被爆から41年たって手話通訳者の聞き取りに応じた。証言した思いを筆談を交えてこう振り返る。

 「誰かに聞いてもらいたかった。寂しかった。打ち明けて心が楽になりました」

 生まれつき耳は聞こえない。幼いころから鍛えられた口話や手話でも、例えば「放射能」を表そうとすると難しさがつきまとう。何より子育てや亡き夫から引き継いだ理髪店の仕事と、生きることに日々手いっぱいだった。

 1945年8月6日、黒川さんは広島県聾(ろう)学校が疎開していた吉田町(現安芸高田市)にいた。初等・中等部の98人が教職員と町内の寺で寝起きし、県農学校を仮校舎として通っていた。

 「広島の空の方向に白と黒の巨大な雲が上がったのを見ました」。両手を上下左右に大きく動かして「あの日」を表した。

母親を必死に看病

 家族は中広町(現西区)に住んでいた。父静馬さん=当時(46)=が自転車で迎えに来て14日、自宅焼け跡に戻った。姉妹も軽傷だったが、母春代さん=同(43)=は重傷を負って防空壕(ごう)に横たわっていた。

 広島県手話通訳問題研究会が89年に刊行した「生きて愛して」で、再会の様子を鮮明に証言している。

 「『お母さん、お母さん』/『トモエ』/うなずくだけでした/焼けあとの水道管から出る水を、泣き泣き飲ませてあげました/必死に看病しました」

 母が動けるようになった3年後、聾学校(現中区吉島東の広島南特別支援学校)に復学する。裁縫科で学び理髪の実習も積んだ。

 20歳の年に理髪店で住み込み働きを始め、店主保さんと結婚。夫もろう者だった。一人息子を授かった後は江波二本松(現中区)に店舗兼自宅を新築。義父母と同居し、ローンもわずかとなった79年、保さんが51歳で病死する。

 「両親を頼む」。遺言を胸に店も切り盛りして義父母をみとった。忙しい日々を送っていた86年、手話通訳者仲川文江さん(75)=南区出島=と出会い、その依頼に応じた。

 仲川さんは両親がろう者で「言葉より先に手話を覚えて育った」。それでも手や体の動き、顔の表情を総合的に読み取る手話は、書き言葉には置き換えられないという。同時に、「私がやらなければ、聞こえない被爆者の体験も存在もなかったことになる」との思いに突き動かされた。

学校に偲ぶ碑建立

 中国大陸や樺太からの引き揚げを含むろう者15人(うち被爆が11人)の戦争体験を83年から87年にかけ聞き取り、証言集として編んだのが「生きて愛して」だ。

 さらに、仲川さんは被爆ろう者と協力して2003年、「原爆死没ろう者を偲(しの)ぶ碑」を現南特別支援学校に建てた。広島市の調査もなく被害の全容は不明だが、13年末までに117人が亡くなったという。証言集に寄せた被爆ろう者で健在なのは黒川さんだけとなった。

 黒川さんは、店舗が広島南道路の建設地となり5年前に仕事を畳んだ。今は長男夫婦と暮らし、孫は4人いる。外出は車いすが必要となったが、広島聴覚障害者福祉会が営む作業所に通う。被爆地へ寄せられる折り鶴を解体し、平和を訴える再生紙作りに努める。

 母校に立つ碑を、取材にも応じた黒川さんは仲川さんと訪ねた。被爆ろう者の存在はヒロシマの歩みの中で知られているとは今も言いがたい。「鎮魂」と刻まれた碑の前で、黒川さんは両手を胸の前で上下に振った。

 「被爆ろう者の碑があることは亡くなった人もうれしく思っている」。仲川さんはそう通訳してくれた。

(2015年3月23日朝刊掲載)