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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 紙碑 <8> 「沖縄の被爆者」 1981年刊 援護 置き去りだった

 広島・長崎から沖縄に戻った被爆者は、援護から切り捨てられた。原爆医療法が1957年に制定されても、政府は「適用されない」と除外した。戦後日本に主権を回復させた対日講和条約は一方で、沖縄を米軍の施政権下に置くことを認めていたからだ。

 この扱いに対して65年、丸茂つるさん=当時(58)=ら沖縄在住の5人が法の適用を求めて東京地裁に提訴した。本土が東京オリンピックに沸いた前年、丸茂さんは、現在の沖縄県原爆被爆者協議会(被爆協)の発足に参加し、地元での原水爆禁止集会で初めて体験を証言していた。

 「母は『原爆の生き証人』という務めを全うしたと思います」。長女の比嘉幸子さん(82)を那覇市の自宅に訪ねると、丸茂さんとの歩みを穏やかな口調で振り返った。

広島へ前年に疎開

 丸茂さんは、戦火が迫り来る沖縄から44年夏、息子と娘を連れて夫の郷里である広島へ疎開した。だが夫は年末に病死し、航空機製作工場に職を得て暮らしを支えた。

 爆心地から約1・75キロ。45年8月6日、丸茂さんは元安川に架かる南大橋で左半身を焼かれた。女学院高女1年だった幸子さんは発熱のため吉島町(現中区)の自宅にいた。自力で何とかたどり着いた母を懸命に看護し、兄政貴さん(87年に57歳で死去)は橋も流れ落ちたデルタを結ぶ渡し船で働くなどした。

 親子がわずかな所持金を携え、地上戦で変わり果てた郷里に引き揚げたのは翌年秋。再会できた祖母と沖縄本島中部の石川市(現うるま市)に落ち着いた。

 母は左耳から首筋にかけてケロイドがひどく、人の目を避けていたが意を決して市役所に勤め、遺児2人を東京の大学へ送った。

 そして、本土から置き去りにされていた被爆者として声を上げるようになる。59年に起きた米軍ジェット機墜落事故を目撃したからでもあった。自宅と隣接する宮森小に墜落して死者17人、負傷者210人が出た惨事。操縦士は脱出していた。

37編は仮名で掲載

 「一瞬のうちに大火災となったのを見て、広島でのことが思い出され/基地あるために起きる私たちの被害は、いつまで続くのでしょうか」。丸茂さんが「宮城秀子」の名で寄せた「沖縄の被爆者」の一節である。県原水協理事長だった福地昿昭(ひろあき)さん(84)が聴き取った証言66編からなる。被爆協が81年に刊行した。

 丸茂さんらの提訴から政府は67年、原爆医療法の準用を始める。72年の沖縄返還でようやく法が全面適用されるようになった。だが、「被爆者だと分かると仕事に就けなかったり、訴えは反米運動だとみられたりした」と福地さんが言うように、証言のうち37編が仮名での掲載となった。

 長女の比嘉さんも記憶を押し込めて、米軍基地や司令部などで働いた経験を持つ。原爆と向き合うようになったのは93年。広島市の平和記念式典に沖縄県遺族代表として参列し、母校を訪ねた。建物疎開作業に出るなどして犠牲となった同級生141人の名前を刻む碑に手を合わせた。

 それを機に学校や公民館で証言を始めた。母が93歳で亡くなった2000年の式典には、小学5年の孫を伴った。03年からは被爆協副理事長を引き受ける。健在者は176人(うち広島被爆が64人)と少なくなる今、沖縄の被爆者として母の思いも若い世代に語り続けている。

 比嘉さんは、広島からの記者たちを嘉手納飛行場を望む道の駅に案内した。極東最大といわれる米空軍基地を見やりながら、「大変な犠牲を強いられ今も続く沖縄の現実に、本土の人たちはどれだけ関心を寄せてきてくれたでしょうか」と問い掛けた。その間も離着陸する戦闘機や輸送機のごう音がこだました。

(2015年3月16日朝刊掲載)