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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 紙碑 <7> 「あの日に」 1975年刊 爆心 繁華街が消えた

 広島市中区の平和記念公園(12・2ヘクタール)は、かつて「中島」と呼ばれデルタ随一の繁華街だった。元安川の西側沿いにあった街並みを「天神町北組」という。南北に約280メートル。通りには酒卸や京染、洋服店、内科などが立ち並び、有名旅館も構えていた。

 しかし1945年8月6日、爆心地一帯となり、人々の暮らしは街並みごとかき消された。それから30年。天神町をはじめ「中島」ゆかりの18編を収めて自費出版されたのが「あの日に」である。

慰霊碑「お墓です」

 鉄村(旧姓鹿野)京子さん(85)は、公園内に立つ「天神町北組町民慰霊碑」を「私にとってのお墓です」という。小雨がぱらつく中、高齢を押して足を運んだ。長女で元看護師の清野久美子さん(56)が付き添った。共に自宅は市内にある。

 「あの日に」で、鉄村さんは15歳で強いられた体験をこう記している。

 「家の跡は見覚えのある丸い防火水槽があったので見当をつけましたが、そこには母や弟の姿は無く/(道路で)うつむいて死んでおられる人を母ではないかと思いましても、着ているものは焼けていて判(わか)らず、顔をおこして確認する勇気もないまま…」

 食べ物店を「中島」で営んでいた父はガダルカナル島で戦死。母や弟2人と小路奥の「天神町27番地」で暮らしていたが空襲に備え、隣接する材木町の空き家に当座の荷物を移す。

 転居したばかりの「家」から鉄村さんは、祇園町(現安佐南区)に分散疎開していた陸軍糧秣支廠(りょうまつししょう)統制課へ出勤する。その途中、閃光(せんこう)を感じて田んぼに逃げる。「黄リン焼夷(しょうい)弾」だと思った。

 翌7日、帰宅を許されて「中島」へ入り家族を捜した。母の鹿野つねこさん=当時(41)=と弟で中島国民学校3年滋さん=同(8)、勝さん=同(2)=は、遺骨すら見つけられなかった。

 焦土と化した「中島」は、国の特別立法である49年の「平和記念都市建設法」公布を弾みに公園建設が進む。52年に原爆慰霊碑が建立され、55年には原爆資料館と市公会堂が開館する。

 鉄村さんは寂しさを覚えたが、「家族が眠る場所が平和を願う場になるのも悪くない」と言い聞かせた。結婚して久美子さんが生まれると、8月6日の平和記念式典には欠かさず伴って参列した。

 「あの日に」は、天神町で洋服店を営んだ進藤博さんが編んだ。被爆の実態を掘り起こそうと、当時の広島大原爆放射能医学研究所が68年から取り組んだ「爆心復元調査」に協力。73年には町民慰霊碑を旧住民たちと建立した。

 鉄村さんの手記には、原爆体験を高校生の一人娘に語ったやりとりも残る。「あまりピンと来(こ)ないのだなと思った」と記している。

体験伝承者1期生

 それから40年。久美子さんは4月から広島市の「被爆体験伝承者」1期生として活動を始める。

 この3年間の講習では、証言者の講話にとどまらず「中島」ゆかりの手記を探しては読んだ。母の顔なじみの人たちが「苦悩を絞り出すように書いていた」。読み込むほどに「被爆の記憶を伝えることの奥深さ」を感じた。同時に伝承者として、母から聞いてきた「天神町」の思い出もしっかり伝えたいという。

 子どもの頃は父の店でアイスキャンディーを頬張り、元安川で泳ぎ、シジミや小魚をとった…。穏やかな家族の暮らしがあった記憶も語り伝えようと考えている。

 公園内の「天神町北組町民慰霊碑」は、犠牲者のうち名前が分かった272人を刻む。「今も顔が浮かんでくるよ」。鉄村さんは慰霊碑をいとおしそうになでた。ゆかりの地でつれづれに語る母に、娘は「楽しい思い出をたくさん聞いたね。ありがとう」と応じた。

(2015年3月9日朝刊掲載)