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連載 被爆70年

[伝えるヒロシマ 被爆70年] 復興の苦難 重ねた親子 市役所前で麦刈りの写真 広島県熊野町の鈴木さんと判明

 被爆から3年後の1948年に写真に撮られた、広島市役所前で麦刈りをする親子の歩みが分かった。食糧不足のうえ進まない復興の苦難を象徴する写真として市の「広島新史」(1983年刊)や被爆40年・50年史で紹介されてきた。現在は、広島県熊野町に住む鈴木孝さん(72)と母タキヨさん(2000年に83歳で死去)だった。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 市役所前に広がる麦畑は、現中区大手町に立つ広島県JAビルから南の国道2号にかけてだという。

 写真は「ヒロシマ郡ヤケアト村 平和の麦刈り」の見出しが付けられ、中国新聞社が別会社で発行していた「夕刊ひろしま」48年5月29日付で初掲載された。

 広島では米や麦など主食配給の遅配が続き、前年夏は平均20日分に達し、住民らが県庁に押しかける事態も起きた。解消されない食糧不足に備え、「夏を乗り切ろうと母子の苦心がむくいられ立派に麦が実つた」と記事は報じている。

 鈴木さんは、爆心地から約1・2キロの舟入仲町(現中区舟入中町)の自宅で、母は外出途中に被爆。市役所西側にあった防空壕(ごう)で避難生活を送り、父が復員すると壕近くにバラックを建て畑も耕した。

 旧「大手町八丁目八三」のバラックは49年12月、市から「復興土地区画整理事業施行のため」翌年1月末までの「除却」を命じられ、一家は約400メートル西の元安川河岸に移る。市内での移転は計4度に及んだ。

 市役所前の麦畑で親子が撮られた写真は、「広島新史」を紹介する83年11月1日の「市民と市政」に載ったのをタキヨさんが見つけた。「くるしい思(い)出の所」などと書き添えて広報紙を残した。

 鈴木さんは千田小5年生から新聞配達を始め、弟や妹の3人が新たに増えた家計を助けた。そして染料販売店で働きながら県立工業高定時制を卒業し、現マツダに就職。2男1女を授かり、孫は10人を数える。

 「カボチャやサツマイモも育て、つるまで食べたのを鮮明に覚えています。運良く生かさせてもらったから何かの役に立ちたい」と名乗り出た。保管する「除却命令書」を市公文書館に寄贈する考えでもある。

 被爆70年史の編さんに取り組む公文書館は「写真に残る光景に加え、親子の足跡を通じて復興期の市民生活を具体的に記録したい」と、鈴木さんの証言も聞き取ることにしている。

(2015年3月8日朝刊掲載)