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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 ⑬ 直後の船防作命 救援 原爆と知らぬまま

 原爆投下による広島壊滅直後の状況や救援の動きを伝える一級の史料があった。広島市宇品町(現南区宇品海岸)にあった、陸軍船舶司令部の作戦命令書だ。1945年8月6日午前8時50分から9日正午までに出された第53号(34~36号は欠落)まで、計50通が現存する。防衛省防衛研究所が一連の「作命綴(つづり)」を保管している。元司令官が書き残していた手記や関係者らの証言なども交え、史料を読み解く。原爆が今に未来にも何を突きつけているのかを考える。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 「船防作命」と記載されいずれも冒頭に「極秘」の印が押される。船舶司令部防衛作戦命令の第1号は、原爆さく裂35分後の「八月六日〇八五〇」、次のような記述から始まっていた。

 「一、本六日〇八一五敵機ノ爆撃ヲ受ケ各所ニ火災発生シ爆風ノ為被害相当アルモノノ如(ごと)シ」「二、予ハ広島市ノ消火竝(ならび)ニ救難ニ協力セントス」

 佐伯文郎(ぶんろう)司令官=当時(55)=が下達した命令を時間を追って筆記したものだ。船舶部隊を統括する司令部は、爆心地から約4・6キロとなる宇品凱旋(がいせん)館に構えていた。部隊は仁保町、沖合の似島(いずれも現南区)など海岸部に駐屯していて甚大な被害を免れた。

 「三、海上防衛隊長ハ消火艇隊ヲ以(もっ)テ京橋川両岸ノ消火ニ任セシムヘシ」「四、広島船舶隊長ハ救難艇ノ一部ヲ以テ逐次患者ヲ似島ニ護送スルト共ニ…」

炎上の中心部へ

 各部隊の兵士は、原爆だとは分からないまま炎上する市中心部に出動して消火や、負傷者を似島検疫所へ運ぶ救援に乗り出す。

 西日本の作戦軍を統括する第二総軍(現東区二葉の里)や、中国軍管区司令部(同中区基町)に連絡が取れない中の緊急作戦行動であった。県庁、市役所、各医療機関も壊滅的な打撃を受けていた。

 情報班に配属されていた丸山真男一等兵=当時(31)=は閃光(せんこう)の瞬間、司令部前の広場で訓示を聞いていた。戦後日本を代表する政治思想史家は体験を24年後、中国新聞記者に語り、肉声を収めたテープが残る。

 負傷した市民は、約15分後から「放心したような格好で三々五々入って来ました」といい、「海辺までずっと広場なんですけれども、ここがいっぱいになったのです」と証言している。

 「船防作命」を再び繰ると、正午からは火炎が拡大する「比治山北側地区ノ消火」も命じ、爆心地そばを流れる元安川沿いの消火と救援には、江田島幸ノ浦(現江田島市)の船舶練習部第十教育隊も出動させている。10代からなる海上特攻の訓練部隊だった。

 教育隊に所属した山本伝吉さん(85)=佐伯区薬師が丘=は「午後に20~30人ずつ分かれて広島へ向かいました。私らは指揮所があった広島電鉄本社までは入ったが、その先は火の海でとても進めなかった」という。

 全部隊に続き午後1時半、司令部も「電報班ヲ除キ業務ヲ停止シ救護救難ニ」当たる。午後2時までに「収容セル市民死傷者ハ千三百名」をみた。

 午後4時50分には「約一萬名分ノ衣糧需品」の放出措置も採る。乾パン9600個、作業着6500着、負傷者へのミカン瓶詰7千個を市へ渡す。

 部隊は、李鍝(リ・グウ)公殿下=当時(32)=の捜索にも当たっていた。日本が植民地支配した朝鮮王朝の末裔(まつえい)で第二総軍教育参謀として広島に赴任していた。

 「御出勤途中所在不明ノ報」を午後4時に受け、直ちに捜索を開始。爆心地近くの相生橋下流で参謀を見つけ、軍医部のほとんどが治療に渡っていた似島へ運ぶが、7日午前3時すぎに死去した。宮内省と陸軍省は8日に「空爆により御戦死」と発表する。

 午後6時、衛生兵にとどまらず筆写係の女性100人も似島へ送り救護を強化するが、午後8時40分には「各傷者収容所ハ満員」となり、安芸郡坂町に設けた4カ所の救護所へ機帆船と引き船で千人を輸送する。

 午後9時半になると、広島デルタをなめ尽くした火炎はようやく衰える。しかし、「元安川及太田川(本川)流域付近(県庁付近ト推定)ノ火勢逐次大トナリツツ」とも記録している。

遺体はその場で

 夜が明け、惨禍は一層判明する。7日午前7時下達の第32号はこう記す。

 「広島市内ニハ未収容ノ患者尚(なお)多数アリ」。このため「現在収容シアル患者ノ治療ヲ一時中止シ第一線ニ進出シ初療ノ普及ニ勉(つと)ムヘシ」と命じる。簡単な治療を行い、遺体はその場で処理する非常手段をとるしかなかった。

 「広島市空爆直後ニ於ケル措置大要」(市公文書館所蔵)によると、軍幹部や出張先の備後から前夕に戻った高野源進知事=当時(50)=が出席した7日午前10時の会議で、遺体は「輸送ハ困難ニツキ現地デ焼クカ埋葬等ニ付スル」と決まる。郡部から僧侶のみならず神職も「読経」に動員する。

 船舶司令部は、午前10時20分からは「水道及電灯復旧工事ニ協力」する兵員も出す。戦争を遂行するための作戦行動であり「戦災復旧」だった。

 広島警備担任司令官にも就いた船舶司令官は7日、市民にビラで告げる。市内外18カ所の収容先や、食糧、水、薬品などの相談を受け付けることを告示し、「米鬼撃滅ノ闘魂ヲ振起シ戦災復旧ヘノ協力」を訴えた。

 現存する「船防作命」は、「宇品駅軍用ホーム収用患者約二〇〇名ノ似島ヘノ輸送」を命じた9日正午下達の第53号で途切れる。だが、これ以降も出ていた可能性が極めて高い。

 なぜなら、佐伯元司令官による「広島市戦災処理の概要」との手記が残る。13日までに収容遺体は「約二万八千」、患者は「約一万三千」と数字を挙げて記す。終戦の詔書が公表される前日東京へ呼ばれ、翌15日に「戦災処理」の主務を中国軍管区司令官に委ねる―。そう10年後に表している。

 手記は、市が71年刊行の「広島原爆戦災誌」第1巻に本文が転載された。

 「船防作命」も、旧厚生省引揚援護局史料調査官が集め、64年に現防衛研究所へ移管された503点の中にあったが、現存は分かっていなかった。広島県立文書館の元副館長安藤福平さん(66)が探し出した。

 安藤さんは「手記の正確さを裏付ける公文書であり、広島の救援救護がどう始まったのかを伝える。命令一下、出動した兵士も被爆した救援であった」と指摘する。三原市や忠海町(現竹原市)など、市内外からの船舶部隊の出動は約4千人を数えた。

使用禁止訴える

 佐伯文郎氏は、「日本陸海軍総合辞典」によると、宮城県出身で40年に船舶輸送司令官、翌年に中将となる(司令部は42年設置)。67年郷里で死去。77歳だった。長女(89)を訪ねると、「父は広島でのことは、こちらに戻ってきても話しませんでした」と言葉少なに語った。母や妹は古田町(現西区)の住まいで被爆していた。

 元司令官の手記には、「回想」と題した未掲載の一章がある。米軍の水爆実験で第五福竜丸漁船員たちが被曝(ひばく)した前年のビキニ事件にも言及し、原水爆に対する考えを率直に述べている。

 「当時内容判明せず、然(しか)も原子病の知識がなかつたので/その救護成果を十分挙げ得なかつたのは誠に残念である」。そう述懐し、放射線被曝について政府の研究や国民の知識向上を図る対処を求める。同時に、こう訴える。

 「原子兵器の使用を禁止すべきである/今後共幾度も繰(り)返し、全世界に訴へて実現を図らなければならない」。核兵器がひとたび使われたら手の施しようがない。そのことを身をもって体験したからに違いない。

(2015年2月10日朝刊掲載)