×

連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 紙碑 <4> 「追憶」「星は見ている」 1954年刊 慟哭 わが子奪われて

 約500部。広島刑務所で印刷した非売品の原爆手記集が、メディアの注目から広がっていく。広島一中遺族会が86編を集め1954年4月に刊行した。当初は「追憶」と題した。

 当時100万部近く出ていた「サンデー毎日」と「週刊朝日」が共に8月1日号で抜粋文を特集。さらに「追憶」から33編を収め「星は見ている」と題し、鱒書房(東京)から同3日付で出版される。翌年には、NHKラジオ「私の本棚」が8月8日から3日続けて朗読放送した。

生徒353人が犠牲に

 広島一中(現国泰寺高)は、生徒353人が原爆の犠牲となった。爆心地から約800メートルの校舎で、また近くの市役所一帯や、現在は平和大通りとなる小網町一帯の建物疎開作業に動員されて逝った。

 最愛のわが子を原爆に奪われた父母たちの慟哭(どうこく)と哀切に満ちた手記集は、大きな反響を呼ぶ。54年3月には、米軍の水爆実験で第五福竜丸が「死の灰」を浴びるビキニ事件が起き、原水爆禁止の署名運動が全国で広がる。広島・長崎にあらためて関心が寄せられていた。

 「父は、軍人だった自分が死んで身代わりになりたかったとまで思っていました」。正木孝虎さん(79)=東京都世田谷区=は、父母が広島への原爆投下直後から交わした書簡や、戦後「自決」を考えてしたためた父の遺書を取り出した。

 45年8月6日、校舎で被爆した1年生の義虎さん=当時(13)=は、母巴子(ともこ)さん=同(35)=や弟孝虎さんらが疎開していた玖波町(現大竹市)に自力でたどり着いたが、29日に死去した。

 父生虎(いくとら)さん=当時(42)=は、海軍省艦政本部の大佐だった。郷里広島への新型爆弾は「原子爆弾」といち早く知りながら、長男の遺骨を抱くことができたのは9月21日となった。

生きた証しつづる

 「裏の川(京橋川)で練習して、今年こそ本式に泳げるようになろうと思います」。生虎さんの手記は、義虎さんからの便りも引いて懸命に生きていた証しをつづる。「ボール紙で一中の徽(き)章をつくり/体が治ったらこれをつけて学校に行くのだと楽しみにしており」と最期の日々を記す。また一中進学を勧めた自らの判断を責める。

 「星は見ている」の書名は、1年生の次男藤野博久さん=当時(13)=を失った母としえさん=同(41)=の手記から採られた。

 「みんなその魂が天に昇り、星くずとなって、この地上に再びあのような惨禍が起きないようにと、夜毎(よごと)、静かに私たちを見つめているように思われてきました」

 遺族会を率いた秋田正之さん(75年に79歳で死去)は、手記集編さんについてこう語っていた。「親としては忘れようたって忘れられるものじゃありません。(手記集は)遺族会の心の墓なんですからね」(中国新聞63年7月26日付)

 「星は見ている」は、会によって2005年までに3度復刊され、5年前には「平和文庫」と題するシリーズの1冊にも入った。

 孝虎さんは「子どもを無残に奪われた体験を話せる親が非常に少なくなった今、一層読まれてほしい」と願う。自身も90年に父を、06年に母を見送った。

 父は晩年、義虎さんを悼む石の観音像を彫り、手記に書いた自作の俳句を刻んだ。「煩悩の ふた親照らす 秋蛍」。兄の死に立ち会った孝虎さんは、勤めを退いた70代初めから亡き両親の思いも込め、一中慰霊祭へ参列している。

 きょうだいの参列者も少なくなったのを感じ、受け継ぐ両親の書簡や日誌を整理すると、「御兄様の思ひ出」と翌46年に書いていた作文を見つけた。

 幼かった自らの手記からも「家族の絆を断ち切られた悲しみ、戦争のむごさ」にあらためて気づかされた。

(2015年2月10日朝刊掲載)