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連載 被爆70年

[伝えるヒロシマ 被爆70年] 被爆した息子の生と死を切々と 東京-広島 父母の書簡現存

一目会つて死にたいからお父様に手紙で来て下さるやう-

私の血の半分でも若しそれで足らなければ全部でも輸血して-

 原爆でわが子を奪われた正木生虎(いくとら)さん=当時(42)=と妻巴子(ともこ)さん=同(35)=が、直後から広島と東京の間で交わした書簡は18通を数える。長男で広島一中(現国泰寺高)1年義虎さん=同(13)=の生還から死去までを切々とつづる。東京都世田谷区に住む次男が、当時の日誌類とともに受け継ぎ、公開した。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 当時、正木さんは海軍省中枢の艦政本部大佐だった。巴子さんは義父の郷里玖波町(現大竹市)へ子ども3人を連れて疎開し、義虎さんは広島市内の親族宅から一中に通っていた。

 母の書簡は、原爆投下の翌1945年8月7日付から始まる。「昨夜は一晩中広島の方は真(っ)赤に燃えてゐました。あの火の下で義虎はどうしてゐるやら一晩中眠れませんでした」

 義虎さんは、爆心地から約800メートルの校舎で被爆し自力で7日夜、玖波へたどり着いた。母は「隣に寝かせて夜中に幾度も頭をなでて…」(8日付)と生還を伝えたが、「髪の毛がパラパラ抜けて毛根はなくて障ると抜けてきます」(21日)と、悪化する容体を日を追って書くことになった。

 父は、広島へ派遣され戻った海軍調査団の報告を艦政本部で12日聞く。「心の中で(息子の無事を)希求しながらも/利己的な卑怯(ひきょう)な考えだと心に恥じ口外しなかつた」と、張り裂けそうな心境を同日付から記していた。

 広島からの22日付で、「一目会つて死にたいからお父様に手紙で来て下さるやうに言つてくれと申します」と求められたが、敗戦後は米軍進駐に備える命令を受けて動けなかった。

 「私の血の半分でも若(も)しそれで足らなければ全部でも輸血して義虎の頬の紅潮して来る所を見たい」。父がそう書いて送った29日、息子は息を引き取った。

 正木さんは9年後に手記を著す。生徒353人が亡くなった一中遺族会が編み、今も出版されている「星は見ている」(初版1954年刊)で読むことができる。

 兄の死に立ち会った次男孝虎さん(79)は「原爆の無残さを知る親の世代がほとんどいなくなる中、手記に込めた悲しみの深さを知ってほしい」と考え、書簡を公開した。広島への新型爆弾は、「原子爆弾にて被害甚大想像を絶するものある由」と父が8月7日夜に聞いて記した日誌や、調査団報告メモも保存している。

(2015年2月8日朝刊掲載)