×

連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 紙碑 <3> 「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」1951年刊 等身大の願いつづる

 手記に表した寺は広島駅の北、二葉山麓にある国前寺だった。本堂や庫裏は現在、国の重要文化財でもある。新田(旧姓吉田)ユキ子さん(78)=安佐南区高取北=は、「母を見つけたのは山門の脇でした」と感慨深げに見回した。

「戦争なかったら」

 1945年8月9日、9歳だった新田さんは、母照代さん=当時(31)=を捜し、縁故疎開していた和田村(現三次市)から焦土の広島へ入る。幟町(同中区)の自宅で被爆し、逃げてきた妹梅代さん=同(8)=と豊子さん=同(5)=から母の収容先を聞いた。

 それから6年後、国泰寺中(現中区)3年の時に「学校からの宿題」と思って原爆手記を書いた。

 「お母さんは、一枚のやぶれたむしろの上に坐(すわ)って、私たちを待っておられた」。国前寺から母を親族と村へ連れ帰ったが、「九月九日、とうとうあの世の人となってしまわれたのだった」。妹2人も相次いで死去した原爆体験を、こう結んだ。

 「戦争がなかったら/一家そろって幸福で楽しい生活をしていることだろう」

 新田さんは「ありのままに書きました。本になると知っていたら、格好をつけていたかもしれません」という。その手記は、岩波書店から51年10月に刊行され、今も読み継がれる「原爆の子」に収録された。

 編者は、広島大教育学部教授だった長田新氏(1887~1961年)。被爆で重傷を負いながら、新制広島大の礎づくりや先駆けて平和運動にも取り組む。

 長田氏は「原子爆弾が人間の精神にどんな影響を与えたのか」(序文)を少年少女たちの体験から考え、平和教育にも生かそうと提唱。学生らも協力して計1175編を集め、市内と近郊の小・中・高と大学の33校(あとがきによる)からの105編を本文に載せ、84編を長大な序文に引いた。

 「原爆の子」は翌52年、続く53年にも映画化されるなど刊行当初から反響を呼ぶ。累計部数は今、文庫版と合わせ27万部に上る。原爆に関する書籍で異例のロングセラーとなり、14言語に翻訳もされている。

沈黙した執筆者も

 少年少女の悲しみや平和への叫びが共感を呼んだ半面、沈黙するようになった執筆者も少なくない。

 「本になった後の人生も大変さが続いたからです」と、早志(旧姓山村)百合子さん(78)=安佐南区毘沙門台=はいう。執筆者でつくる親睦グループ、「原爆の子きょう竹会」の会長を務める。

 「『原爆の子』その後」と題して99年、33人の手記などを新たにまとめた。早志さんは、結婚と出産の苦難や、原爆症に苦しんだ母の死、自らの乳がんを乗り越えて前向きに生きる日々をつづった。同時に、匿名11人からの「ひとこと」には、安らぎを得られない「その後」もにじむ。

 新田さんは新たな手記に応じた。「自分が母親がいなくて淋(さび)しい思いをしたので、子供達だけはそのような思いをさせまいと、一生懸命育てました」と書いた。

 中学を卒業するとパン店や印刷所で働き、20歳で恋愛結婚。2女を授かった。お好み焼き店を開き、夫義雄さんとビル管理業に転じた。孫は5人、ひ孫は4歳を頭に8人いる。今年の正月も、亡き母や夫をまつる新田さん宅の仏壇前にそろった。

 長女の加藤初美さん(58)=佐伯区美鈴が丘緑=は、看護師として広島赤十字・原爆病院で34年間勤務した。「顧みれば、母の思いをかみしめながら働いていたと思います」と語った。

 新田さんは孫が10代になると「原爆の子」を読ませた。「純粋な気持ちで書いたものが一番分かりやすい」と考えるからだ。いずれ「その後」も読んでほしいという。

 「きょう竹会」は、一昨年に出した改訂版を今年さらに改めて刊行する。「原爆の子」がどう生き抜き、平和な暮らしがいかに大切かを次代にも伝えたいと願うからだ。

(2015年2月2日朝刊掲載)