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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 妻の薬缶 記した無念 「絶後の記録」著者・故小倉豊文さん 遺品 家族が保存

 広島の惨状を記録した原爆手記としていち早く出版された「絶後の記録」の著者、小倉豊文さん(1899~1996年)が、妻文代さん=当時(37)=が「あの日」身につけていた薬缶を残していた。遺品となったいわれも記す。千葉県船橋市に住む長女家族が受け継いでいる。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 「亡母の文代 原爆の日に コノカンハ」と表に、「子供らの冬の霜やけぐすり入れて」と裏に、「ふところにしていたクスリの鑑(かん)なり」と横に書き留めていた。

 文代さんは45年8月6日、広島県北の寺に春から学童疎開していた11歳の長女へ霜焼け薬を送ろうと買い物に出かけ、爆心地から約710メートルの福屋百貨店の前で被爆した。

 48年に刊行され、現在は中公文庫で版を重ねる「絶後の記録」にはこうある。

 「福屋の近所の店で凍傷の妙薬を買うためだった。その店が戦局の激化により、いつ閉店するかもわからぬときいて、寒い山中に疎開している凍傷ぐせの和子のために、買っておこうとしたのだった」

 広島文理科大(現広島大)助教授だった小倉さんは、外出先から妻と次男の謹二さんを捜して「焦熱の死都」を歩き見つけたが、文代さんは被爆13日後に3人の子を残して死去。亡き妻へ宛てた手紙形式の手記を1年がかりで表した。

 長女の三浦和子さん(80)は「絶後の記録」英語版(97年刊)に、息を引き取った母と枕を並べて寝た「八月二十日」付の日記を写真で公開。「和子は自分がお母様をわざわざ死なすやうにしたやうでたまらない。しもやけなど出来なかつたら」と無念さをしたためていた。

 父の郷里である千葉県で高校教諭となった和子さんは、同居した小倉さんをみとり、今は闘病が続く。

 遺品の薬缶は、介護する長女和恵さん(49)が仏壇に納められていたのを見つけた。小倉さんの長男で医師の敬一さん(78)=千葉市=も「初めて見た」という。

 和恵さんは「原爆による心の傷と葛藤しながら生きてきた母の思いも伝えたい」と、薬缶の保存・活用を敬一さんと相談している。

(2015年1月12日朝刊掲載)